思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

浄土真宗「親鸞会」へのコメント。1207年の法然門徒の死刑 流刑と1221年の承久の乱は、つながっている。

2022-06-25 | 学芸

以下は、FBの浄土真宗「親鸞会」への投稿(コメント)です。

 今の大河「鎌倉殿の13人」で、クライマックスとなるのが1221年の「承久の乱」で、これは日本史最大の変革=革命でしたが、
「北条義時を討て!」と院宣を出した後鳥羽上皇は、
 その14年前(1207年)に、法然門下の僧の4人を死刑とし(日本史上死刑が実行されたのはこれが初めて)師の法然を含む親鸞など8名を流罪にしましたが、
 これは、旧仏教側の訴えにより起きたことではなく(訴えたのは興福寺ただ一寺のみ)、上皇のお気に知りの女官二人が、熊野詣に行っていたときに、念仏宗に帰依して出家したことによる【私怨】によるものでした(2008年に中世史の第一人者・上横手氏が書籍で分明に)。

 北条政子、弟の義時(小四郎)、義時の長男の泰時(子ども時代は金剛)この3人が一体となって新しい日本を誕生させたのですが、政子を誰よりも敬愛していた泰時は、政子の供養のための校合を茨城の稲田に居た親鸞に依頼し、その作業をねぎらいに幾度も訪ねています。親鸞はその後で京都に帰ってからも(北条政権が後鳥羽上皇を流刑=終身刑として関係者を全員処分したので帰れたのです)、政子の供養のために尽力しました。親鸞は、主著「教行信証」末尾には、後鳥羽や順徳の名をあげ、彼らは法に反し義に違しと厳しく批判しています。また、政子は法然門下ですので親鸞の兄弟子にあたります。

 というわけで、1207年の「建永の法難」と1221年の「承久の乱」の二つは一続きのものなのです。思想的な革命と政治社会的な革命は同時に起こったことが分かります。
 どちらも後鳥羽上皇の激しい欲望(愛欲と権力欲)が端緒になっていますので、彼は、反面功労者ということになります。

 以上は、浄土真宗開宗(来年2023年は、開宗800年・親鸞生誕850年)の地の茨城八郷の板敷山大覚寺を3年前に37年ぶりに訪れたときに、「寺の開基は後鳥羽上皇の第三皇子」と書かれているのを見て、なぜ上皇の息子が?と疑問をもち、寺に聞きましたが、「そう書かれているだけで分からないのです」とのことでしたので、わたしが頑張って調べ、突き止めたことです。

 後鳥羽上皇とその息子たちは、承久の乱で、全員処分され(5名が遠島、8名が出家)、比叡山に出家した一人、周観(のち善性=親鸞が命名)は、おそらくは自身の傷心を救う「悪人正機」を唱える親鸞を頼って東国の茨城に来たのでしょう。同時に親の罪滅ぼしの気持ちもあったのでしょう。なお、東弘寺(東本願寺派)も善性の開基で、善性の木像があります。板敷山大覚寺(西本願寺派)には親鸞の木像があります。

武田康弘
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