思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『それは、密告からはじまった』土肥信雄ー東京都教育委員会の「狂気」の実態に唖然

2011-02-21 | 書評
澤宮 優さんの書かれた『生徒がくれた“卒業証書” ~ 元都立三鷹高校校長 土肥信雄のたたかい』に続き、今度は、土肥校長自身が書かれた『それは、密告からはじまった』を読みました。

こよなく生徒を愛し、優れて民主的な学校運営を続けた土肥信雄さん。ほとんどすべての生徒と保護者から愛され、支持されてきた稀に見る校長先生を、東京都教育委員会と石原知事が任命した将棋棋士の米長教育委員は目の敵にし、権力をもって弾圧・陰湿なイジメを行ってきましたが、その実態が本書では、事実をもって淡々と語られています。ただし、土肥さんの心は熱く、叙述はユーモアに富んで楽しいですが。

これを読むと、東京都教育委員会の「狂気」という他にない言動の意味が分かります。戦前と同じく、特定のイデオロギーにつく行政=政治がもつオゾマシサ・危険性が戦慄と共に明白になります。現場・当事者の意思を無視し、上位者のもつ特定の思想を強権によって実現しようとする事がどれほどの「悪」であることか。彼らの所業は、近代市民社会の常識を大きく逸脱し、根源悪と呼ぶほかありません。

本書を読み、一連の出来事の「事実」を知ってなお、東京都教育委員会に理があると思う人は、おそらく唯の一人もいないでしょう。議論すること自体を認めない!!という教育とは、酷い管理でしかありませんが、管理と教育が二律背反であることさえ知らない人が教育行政に関わるとは、ただ絶句あるのみです。管理とは機材や設備、あるいは品質について言われることであり、人間を管理するというのでは、悪未来のSF小説でしかありませんし、歴史的には、ヒトラーのナチズムや戦前の天皇制下の軍国主義における人間抑圧そのものです。

いま、土肥さんは、東京都教育委員会を相手に裁判をしていますが、この裁判で万一土肥さんが「敗訴」するなら、わが日本の民主主義は完全にオシマイでしょう。繰り返しますが、本書を読まれてなお、土肥さんに非があると思う方は、一人もおられないと思います。ぜひ、ご一読を。

「教育現場で私は生徒に「自分の思ったことははっきり言いなさい」と指導してきました。ほとんどの学校の教育目標に「自主性、主体性」という言葉が出てきます。私は、それを生徒に教えた責任からも、自分の思ったことは言わずに、不当な権力にへつらうことは出来ません。・・・今回提訴した一番の理由は「生徒のために」です。私の教えた生徒たちが自分の思ったことを自由に発言できる社会にしたいからこそ提訴したのです」(土肥信雄・本書106~7ページ)

みなさん、この問題に限らずですが、私が、自分が、できることをしてみませんか。評論家のような生き方はよい人生ではありません。小さな勇気ある行動・よき行為によってのみ、人間の生は、意味をもち、価値づく、わたしは、そう思っています。


武田康弘
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「それは密告からはじまった」考 (成瀬功)
2011-03-09 14:21:37
土肥信雄著「それは、密告からはじまった」(「七つ森書館」)に思う
1、「土肥裁判」と日本の司法の問題点
日本の司法が、日本の民主主義の柱である3権分立の一翼を担う独立機関として機能しているのかと疑問を持つ。日本の裁判官の実態はほとんど明らかになっていない。松山大学の田村譲教授は日独司法制度の比較をされた、リストがある。それを参考にした。
①違憲判決の数 日本・10件 ドイツ・500件以上 ②最高裁判所の建物 日本・窓が少なく石造りの城塞の様な建物 ドイツ・広いガラス窓の3階建てで軽量建物 ③最高裁判判事の出勤風景 日本・黒塗りの公用車で警備員に敬礼されて出勤。ドイツ・ヘルメットをかぶりスクーターを自分で運転して出勤 ④裁判官数 日本・2,850人 ドイツ・22,100人⑤行政訴訟の数(年)日本・1250件ドイツ約22万件 ⑥行政訴訟上原告(市民)勝訴率日本・2~3%ドイツ10%以上 ⑦申し立て手続き日本・厳格・補助なしドイツ・簡易・補助あり ⑧裁判官の転勤日本は3年ごとドイツなし⑨出勤時刻の拘束日本・あり ドイツ・なし ⑩ボランティア活動日本・×ドイツ○ ⑪政党加盟日本×ドイツ○ ⑫社会的発言日本×ドイツ○
 日本の裁判官が、ほとんど基本的人権について無知で、無関心であるのは、彼ら自身の基本的人権が保障されていないことにある。日本の裁判官は、市民的自由すら与えられていない。基本的人権も、市民的自由も、団結権もない日本の裁判官は、権力の横暴、暴走をチェックする機関になっていない。
最高裁事務局を頂点にして司法官僚の給与と昇進、転勤人事などがんじがらめになっていて、事務局の意向に反する判決は出せない。「ヒラメ裁判官」「オウム裁判官」しか生き残れない。
「判事補・裁判官の人用と再任用、転勤、昇任、報酬、部総括指名、人事評価などは、実質的に最高裁事務局の司法官僚の手に握られている。そしてまた、選任の基準は全く不明のままだが、判事補段階に於いて司法官僚のエリート候補生の選別が、最高裁事務局によって行われている」(新藤 宗幸『司法官僚』岩波新書P197)
最高裁判所の判事の人事権を内閣が持つ。「司法の独立」は、虚像だ。ドイツでは、違憲判決は500件以上出されているが、日本は10件しかない。「司法」の独立は日本にはない。仮面をかぶった「行政機関」でしかない。
最高裁判所の本来の仕事は、政府が作る法律が、憲法と整合性を持つかどうか、国民に代わって審査するのが仕事である。行政府、内閣の暴走を審査し、チェックするそうした仕事を戦後最高裁判所は全くしてこなかった。それどころか下級審でそうした判決が出ないようににらみを利かしている。彼ら裁判官に人権思想、感覚はほとんど欠如している。 
土肥氏が『都教委を訴えた』ことの意義は大きいが、日本の司法の腐敗は遥かに重く大きな問題を抱えている。そうした問題を乗り越えて良い判決を期待する。


2、都教委の暴走、横暴
「それは密告にはじまった」は、土肥氏の思いのこもった憤怒の「都教委に対する告発」書だ。都教委の横暴と卑怯さ、人権侵害は数限りない。土肥氏対する言論弾圧だけでなく、教職員や生徒に対する言論統制の意図がこの裁判を通して明らかになってきた。
教育において言論の自由を奪うことは、戦前を見れば明らかなように、戦争への道につながる恐れがある。戦前の負の遺産が今再び甦ってきた。
最後の元老西園寺公望は92歳でなくなる直前に「近代日本の教育」に深刻な挫折感を「日本は滅びるのや」と述懐している。「結局右翼がどうのこうのと言ふけれども、国民の知識が非常に低いし、国民が低調過ぎる。…知識的の向上が足りないと言ふか。実に困ったものだ。これまでいったい何を教育してゐたか。これも明治以来の教育の方針が悪かったんだな」(「西園寺公望と政局」)と嘆かせた偏狭な「国粋主義」と対置する立場にあった西園寺の目に映った教育の国家統制が日本を滅ぼした。
明治5年学制公布によって国民教育の制度が確立され、その指導原理が求められた。国民道徳論が発展し、教育勅語が、戊申詔書が、師範学校令が発布されて、国民教育の基礎は国民道徳に求められることとなった。自由主義・個人主義思想を排除し、個人としての自覚の機会を奪い、国家権力と天皇への絶対的服従の観念を注ぎ込むことに全力を傾注した。その結果、無自覚で無批判で事大主義的で非人間的な日本国民を作り上げた。西園寺公望が「明治以来の教育の方針が悪かった」と語らしめたところはここにあった。
小渕内閣の時の「国旗国歌法」は「国旗は、日章旗とする」「国歌は、君が代とする」がその引き金になった。野中官房長官は「法律ができたからと言って強要する立場に立つものではない」と答弁したが、その答弁は、国会を出た途端「雲散霧消」。文部科学省も、東京教育委員会も、法を守る気が全くない。彼らは、人間として信用できない。法を守ろうとしない人間たちだ。法の番人の裁判官も、法を守る気概は全くない。
「第19条思想及び良心の自由は、これを犯してはならない。」思想及び良心の自由は、表現の自由などの各種精神的自由権の前提となる規定として把握される。その内容が内心の自由であることから、他者の人権との抵触による権利の制約や、政策的目的による制約が極めて限定的にのみ観念される権利であり、最大限保障される権利である。思想・良心の自由は思想・良心を形成する自由や外部に表明する自由も保障しているとする説も有力に主張されている。
学校現場への都教委は『日の丸・君が代』を強要は徹底した。「明治以降の教育」に戻った思想統制の暴挙だ。大多数の教員も生徒も心が引き裂かれ、教育の現場は荒廃した。その荒廃の極にあるのが東京都教育委員会だ。ついには、職員会議を否定し、「職員会議で挙手・採決」を禁ずるという戦前にもなかった暴挙、教員の「思想、信条、表現の自由」を弾圧し、否定した。今の日本を支配する重苦しい空気は、言論の封殺が一因である。ものごとを吟味し、批判し、真実はどこにあるかを追求する精神こそ、教育においてもっとも大切にされなくてはならない。教員の「自由検討の精神」を封じる都教委の通知は、その精神を否定するようなものである。
 「吟味する精神」は、思想などという難しいものではない。むしろ思想を肉体に宿す人間が心して自らから持つべき潤滑油のようなもの。こわばってとげとげしくなっていく学校を柔軟な姿に戻すためにも、吟味する精神は欠かせない。その精神を働かせ教育の根本をたずねることは、すべての先生が参加してはじめて可能だ。職員会議を否定するような通知は、学校教育を壊すことでしかない。
土肥さんは「都教委が正しいのか、私が正しいのか判断してもらうため」「公開の場で討論するために裁判に」訴えた。
「米長氏を批判したことを密告され、都教委から3回も呼び出され、最後には米長氏が三鷹高校を訪問することを告げられた」。しかし、裁判では「都教委は米長氏が三鷹高校を訪問することを告げていないと主張」している。「言論の自由が憲法で保障されている日本で、批判するだけで強権的な指導や脅迫をする」都教委と徹底的に闘うために立ちあがった。
「都教委の『ウソ』『密告』から始まった私への言論弾圧と裁判の中での都教委の『ウソ』の全てを全国民に伝え、都教委の『横暴と卑怯』の実態を明らかに」したい。その思いを「『それは、密告からはじまった』七つ森書館」の本に、土肥氏はその思いをぶつけた。
カントは、「汝の権利を踏みにじった他人をして、処罰を免れて恬然(てんぜん)たらしむることなかれ」という格律を導き出している。「密告した卑劣な人間」に、ノーと言い、対抗措置をとることは理の当然の義務である。都教委が行ってきたここ数年の横暴、信じられない暴虐に関する土肥氏と都教委の闘い年表もあり、随分参考になる。我々も含めて、土肥氏の著作は「憤怒の書」である。言論の抑圧は、戦前と同じ道を歩むことになる。それは戦争への道でもある。恐るべき時代、悲しき時代、その中で我々は生きていかなくてはならない。「GPUゲーペーウー」「KGBカー・ゲー・ベー」の時代だ。

3、教育を取り戻すための闘い
「日本国憲法第12条憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とある。
ドイツの法学者であるルドルフ・イェーリンク(1818年- 1892年)は「権利のための闘争」の中で「自己の権利が侵害された際に法廷等で徹底して闘うことは、単なる損得勘定の問題ではなく、自己の尊厳を回復するための倫理的自己保存であり、法を実現するための共同体に対する義務である」と説いる。
土肥氏が「基本的人権」を侵害された以上、それに対して闘うのは、権利であるとともに義務でもある。それは土肥氏だけではなく、今の東京都教育委員会が、教員の、生徒の人権を平気で踏みにじることに対して我々は立ち上がらなくてはならないのだ。立ちあがることが義務である。都教委の人間は人権感覚をほとんど持ち合わせていない。
「闘争は権利=法の永遠の仕事である。労働がなければ財産がないように、闘争がなければ権利=法はない。『額に汗して汝のパンを摂れ』という命題が真実であるのと同様に、『闘争においては汝の権利=法を見出せ』という命題も真実である。権利=闘争の用意をやめた瞬間から、それは自分自身を放棄することになる。」(「権利のための闘争」)
過去幾世紀にも渡り人類が血と汗とを流して闘って獲得してきた「基本的人権」の法を守るためにも闘うことが我々に課せられた権利であり義務である。最近の組合は、前面に立って闘うことをしなくなったのは、過去の人たちの戦い取った権利を放棄することだけでなく、自らの人格も放棄しているという点で罪深いことになる。
「諸国民が何の苦労もなしに法を手に入れたわけではなく、法を求めて苦心し、争い、戦い、血を流さなければならなかったからこそ、それぞれの国民と法との間に、生命の危険を伴う出産によって母と子の間に生ずるのと同様の固いきずなが生まれるのではないか?」「血を流すほどの労苦によって法と制度を勝ち取らねばならなかった国民は、これを奪うことを許さないのである。」(「権利のための闘争」)
都教委が、教員の人格そのものを否定し、無礼極まりない不法と暴虐を行っていることに対して沈黙すること、臆病者として逃げることは、自らの人格をも否定することである。
「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮辱するような仕方で権利侵害に対して抵抗することは、義務である」「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。」(「権利のための闘争」)
自己の権利が蹂躙されるならば、その権利が侵害されるだけでなく、人格まで脅かされるのである。「権利のために闘う」ことは、自己自身のためのみならず、国家・社会に対する義務でもある。
土肥氏が都教委の不法と横暴に対して立ち上がったのは、土肥氏の基本的人権侵害対する「権利のための闘争」であり、健全な国家、社会の発展に対する貢献でもある。是非この本を読んでほしい。考えてほしい。立ち上がってほしい。
自由と生を享受しうる者は、権利のために日々闘争し、それを贏ち得ねばならぬ者のみにある。自由と民主主義について論じれば、自由人「である」と思い込んで自身の行動を点検することを怠る人は逆に自由でなく、比べて自由「である」ことに甘んじることなく自分の自由を獲得するために闘う人が自由に恵まれる。
「肉体的苦痛が肉体的自己保存の義務を果たせと警告するように、倫理的苦痛は倫理的自己保存の義務を果たせと警告する。」(「権利のための闘争」)
基本的人権を侵された苦痛は、倫理的自己保存の義務を果たすことが要求されているのである。土肥氏が立ち上がったのは、
「それは密告からはじまった」考Ⅱ (成瀬功)
2011-03-09 14:25:28
基本的人権を侵された苦痛は、倫理的自己保存の義務を果たすことが要求されているのである。土肥氏が立ち上がったのは、彼の義務を遂行することにあり、我々が土肥氏を応援するのは道徳的義務でもある。

4、都教委のしていることは犯罪だ。人権蹂躙であり、人格破壊だ。
文部省が教育改革をするたびに教育は統制と管理の強化があるのみだ。最近の都教委は自由豁達であった都立高校の教育を壊し、教員の人格を侵害した。重箱の隅をつつくようなやり方で、細かい所、隅々まで監視の目を行き届かせ、箸の上げ下げにまで口うるさくヒステリックに文句を言い、教員を心理的に窒息させ、逃げ場がないところまで追い込むやり方で管理を徹底する。彼ら都教委は人権侵害、人格の破壊は当たり前としている。教育を壊した。絶対服従の観念を注ぎ込み、教員をティーチングマシンにしようとしている。新聞に見るごとく精神的に追い詰められ、先の見えない不安と孤独に苦しむ教員の急増、精神を病む人が激増している。真面目な人が、優れた人が、炭鉱のカナリアの如くにまず、病み倒れていく。都教委は根本的に間違っている。人間を馬や犬を調教するように思い、生徒を受験勉強に適応するようにする。よく訓練された犬と思っている。そして他者を蹴落とす人間を作ろうとしている。Aランクの高校、Bランクの高校という差別を都教委がしている。恥ずべきことだ。屈辱だ。
差別することと競争することこそ教育だとする都教委の教育は根本的に非人間的な教育だ。実に貧しい人間観しかもち得ない東京都教育委員会にNOというべきだ。人間が壊されていく。都教委のしていることは教員の手足を縛り、人権蹂躙をおこなうだけでなく、未来を持つ高校生に偏見を植え付けている。教育は、幅広い教養と専門の学芸を習得し、真理を愛し、高い倫理観と芸術性を備え、堅固な自立心をもった人間、人格の育成を教育目標とすべきだ。
そして一人ひとりが他者と共に生きることを喜びと感ずる心もつことを養うことが大切だ。冷たい頭で説かれる深遠な教育論より熱い心の平凡な言葉で子どもたちに語りかけることの方が大切だ。真実を教えることより、身をもって真実を見出すにはどうしなければならないか。
医者の言葉に「鬼手仏心」という言葉がある。「鬼手」とは、人間わざをこえた優れた力、技術を意味する。それだけでは完全ではない。「仏心」とは慈悲の情けの心、慈しみの心がそなわっていなければ良い医者といえない。教授術にどんなに優れていたとしても、生徒に対しての慈しみの心がなければ、知識は生徒の中で知恵にまで昇華されない。知識を注入しどれだけ注入できたかが教育ではない。世の中、技術社会であるからと言って知識という技術をどんなに注入してもそれは、それ以上のものに発展しない。
人格の涵養の目標達成のために、教職員は、互いに不断に改善を積み重ね、切磋琢磨することが大切だ。上意下達では何も学び得ない。教師と子どもたちが連帯し、勉学に励み、立派な人間になることにある。そしてすべての子どもたちが、自らの学校生活を、一生涯を通じて、誇りとして育っていってほしい。卒業後も、常に、自分の目で真実を見つめ、物事の本質を見極め、自らに問題を提起し、自らの考えを持ち、ひとのために考え、ひとのために働き、社会のために仕事ができるひとへと成長できるような人間になることが大切ではないか。
『持続する志』を持って努力する人間を育てることにある。人間の品性はそこにある。人間の落ちこぼれを作らないことだ。
成瀬功

詳細で説得力あるコメント、感謝です。 (武田康弘)
2011-03-10 14:18:19
成瀬功様

詳細で説得力あるコメントをありがとうございます。

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