切ない恋
独居老人は目が覚めるとおもむろにトイレに立った。時計を見ると午前二時を少し回ったところだ。尿意とは別に、老人の鳩尾(みぞおち)の少し上のあたりが何となく重苦しい感じがする。用をたしてスッキリすると、その感覚はますますはっきりと老人の胸の奥を占領していった。
昨日もほとんど一日中、近くに住む彼女と一緒に過ごした。彼女は老人より五つ歳下の七十四歳。午前中は二人で隣市の公民館でボランティア団体の役員会に出た。午後は一時半から彼女が主宰する川柳会に出た。昼は時間がないので、移動の途中にあるコンビニでサンドイッチを買い、駐車場で二人で食べた。
川柳会は居住市の広報を使って市内の同好の士を募ったもので、会員は主催者を含め十五名、老人も副会長として彼女を補佐している。会を進める彼女は終始笑顔で会員を引きつけた。彼女は何をするのにも前向きで楽しそうだった。
四時過ぎに二人で老人の家に帰ると、彼女は台所に入り夕餉の支度をした。彼女の好きな焼酎をお湯で割って乾杯し二人だけの宴会をした。乾杯の前に老人は きまって彼女のそばに行き、そっと口づけをする。ちょっと苦笑するような表情を見せながら、彼女は目を閉じて受け止めた。老人はそんな彼女を無性に可愛いと思った。
「君はほんとに可愛いよ。」
と老人が彼女に囁くと、彼女はニッコリして
「あなたも素敵よ。」
と答える。二人は食事も済ませ、居間に移動して十時頃まで飲みながら、とりとめのない会話を楽しむ。心から「幸せ」を実感するひとときである。
話題はボランティア活動のこと、世の中のこと、これからのこと、人間関係のこと、体調のこと、セックスのこと、旅行のこと、子供たちや孫のこと、芸能のことなど何でも話す。時に意見が対立することもある。
「そろそろ帰るわね。」
「そうだね。もう十時半だ。おやすみ。」
「今日も一日一緒だったわね。楽しかった。時間の経つのって速いわね。もうこんな時間。じゃあおやすみなさい。」
彼女はキスをして玄関に向かう。別れ際老人は彼女を強く抱きしめる。ドアを閉めながら微笑んで小さく右手を振って出て行った。
老人も手を振る。玄関のカギをかける音が胸に刺さるような気がして思わずそっと回す。だがカギは容赦なく「ガチャ」と乾いた音を立てた。外灯を消す。
明日も午後から二人で出かける予定がある。二階の部屋に行って床に横になる。目を閉じると老人の胸にふっと今帰ったばかりの彼女の面影が浮かんだ。
「可愛いよ。」
と心の中でつぶやくと面影が笑った。帰り際に抱きしめた彼女の感触と重みがよみがえって老人の胸元を圧迫する。もっと抱きしめていたい。胸の奥に重いものが沈殿してうずく。
「なんであいつはこんなに可愛いんだろう。」
自問しながら今日の一日のことに思いをはせるうちに眠りに落ちていった。
次回のテーマは 「永遠の恋人」 です。
独居老人は目が覚めるとおもむろにトイレに立った。時計を見ると午前二時を少し回ったところだ。尿意とは別に、老人の鳩尾(みぞおち)の少し上のあたりが何となく重苦しい感じがする。用をたしてスッキリすると、その感覚はますますはっきりと老人の胸の奥を占領していった。
昨日もほとんど一日中、近くに住む彼女と一緒に過ごした。彼女は老人より五つ歳下の七十四歳。午前中は二人で隣市の公民館でボランティア団体の役員会に出た。午後は一時半から彼女が主宰する川柳会に出た。昼は時間がないので、移動の途中にあるコンビニでサンドイッチを買い、駐車場で二人で食べた。
川柳会は居住市の広報を使って市内の同好の士を募ったもので、会員は主催者を含め十五名、老人も副会長として彼女を補佐している。会を進める彼女は終始笑顔で会員を引きつけた。彼女は何をするのにも前向きで楽しそうだった。
四時過ぎに二人で老人の家に帰ると、彼女は台所に入り夕餉の支度をした。彼女の好きな焼酎をお湯で割って乾杯し二人だけの宴会をした。乾杯の前に老人は きまって彼女のそばに行き、そっと口づけをする。ちょっと苦笑するような表情を見せながら、彼女は目を閉じて受け止めた。老人はそんな彼女を無性に可愛いと思った。
「君はほんとに可愛いよ。」
と老人が彼女に囁くと、彼女はニッコリして
「あなたも素敵よ。」
と答える。二人は食事も済ませ、居間に移動して十時頃まで飲みながら、とりとめのない会話を楽しむ。心から「幸せ」を実感するひとときである。
話題はボランティア活動のこと、世の中のこと、これからのこと、人間関係のこと、体調のこと、セックスのこと、旅行のこと、子供たちや孫のこと、芸能のことなど何でも話す。時に意見が対立することもある。
「そろそろ帰るわね。」
「そうだね。もう十時半だ。おやすみ。」
「今日も一日一緒だったわね。楽しかった。時間の経つのって速いわね。もうこんな時間。じゃあおやすみなさい。」
彼女はキスをして玄関に向かう。別れ際老人は彼女を強く抱きしめる。ドアを閉めながら微笑んで小さく右手を振って出て行った。
老人も手を振る。玄関のカギをかける音が胸に刺さるような気がして思わずそっと回す。だがカギは容赦なく「ガチャ」と乾いた音を立てた。外灯を消す。
明日も午後から二人で出かける予定がある。二階の部屋に行って床に横になる。目を閉じると老人の胸にふっと今帰ったばかりの彼女の面影が浮かんだ。
「可愛いよ。」
と心の中でつぶやくと面影が笑った。帰り際に抱きしめた彼女の感触と重みがよみがえって老人の胸元を圧迫する。もっと抱きしめていたい。胸の奥に重いものが沈殿してうずく。
「なんであいつはこんなに可愛いんだろう。」
自問しながら今日の一日のことに思いをはせるうちに眠りに落ちていった。
白浜 渚の本
シニア恋愛小説「ピアノ」
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次回のテーマは 「永遠の恋人」 です。
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