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【田母神俊雄】日本の軍事■■■。元航空自衛官で第29代■■■■■

2009-04-22 04:30:55 | 図書館
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【田母神俊雄】

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田母神 俊雄
1948年7月 -

2008年8月19日、アメリカ合衆国バージニア州
アーリントン合衆国空軍記念碑にて
生誕地 福島県郡山市
所属政体 日本
所属組織 航空自衛隊
軍歴 1971 - 2008
最終階級 空将(退職時)
航空幕僚長たる空将(最高位)
指揮 航空総隊司令官
統合幕僚学校長
第6航空団司令
表・話・編・歴

■■■■■(たもがみ としお、1948年(昭和23年)7月 - )は、日本の軍事■■■。元航空自衛官で第29代■■■■■。

目次 [非表示]
1 来歴
2 注目を集めた発言
2.1 名古屋高裁の傍論に対する発言
2.2 東京大学・五月祭にて
2.3 核武装発言
2.4 ジョーク、ユーモア
3 最優秀藤誠志賞受賞論文
3.1 趣旨
3.2 受賞決定
3.3 公表後の波紋
4 解任後
5 人物像
6 備考
7 年譜
8 著書
9 脚注
10 関連項目
11 外部リンク



来歴 [編集]

アメリカ合衆国空軍儀杖隊を巡閲(2008年8月19日)
アメリカ合衆国空軍参謀総長ノートン・シュワルツ(右)と(2008年8月19日)1948年(昭和23年)福島県郡山市で生まれる。福島県立安積高等学校から防衛大学校に入学。卒業後航空自衛隊に入隊。職種は高射運用。

第6航空団司令、統合幕僚学校長、航空総隊司令官の要職を経て、2007年3月28日、航空幕僚長に就任。

2008年10月31日、自身の論文にて集団的自衛権の行使を日本国憲法違反とする政府見解や1995年8月15日発表の村山談話と異なる主張を発表したことなどが問題視されたことを受け、航空幕僚長の職を解かれ航空幕僚監部付に[1]。62歳定年の航空幕僚長たる空将(軍隊の大将相当)でなくなったことにより一般の将(同中将相当)と同様の60歳定年が適用され、11月3日を以て定年退官となった。

2008年11月11日、参議院外交防衛委員会に参考人として招致される。この委員会において論文内容を否定するつもりはないことを改めて強調した[2]。


注目を集めた発言 [編集]

名古屋高裁の傍論に対する発言 [編集]
自衛隊のイラクでの活動に対する違憲の確認と派遣の差し止め、及び損害賠償を求める訴訟に対し、名古屋高等裁判所[3]は控訴人の請求はいずれも不適法であるとして棄却を言い渡したが、傍論として航空自衛隊の一部の活動を違憲[4]とする見解を示した[2] [3]。同判決について、原告側は判事の「傍論」を以って「実質勝訴」だったという見解を記者会見の場で示している。[要出典]

当時航空幕僚長を務めていた田母神は、2008年4月18日の定例会見で判決が現地で活動する隊員に与える影響を記者から問われると、「純真な隊員には心を傷つけられた人もいるかもしれないが、私が心境を代弁すれば大多数はそんなの関係ねえという状況だ」と発言した[5]。この発言が報道で取り上げられたことに対し、後日「表現が不適切であり、判決自体には異論を述べる趣旨ではなかった」と釈明している[6]。

当時の防衛大臣石破茂がお笑いタレントを意識して言ったのではないと本人から聞いたということや、会見録からも茶化して言ったという感じではないということを衆議院安全保障委員会で述べている[7]。ただし、一種の舌禍事件となったため本人の意図に関係なく「そんなの関係ねえ」との発言のフレーズだけが、その後も多くのマスコミで繰り返し引用され[8]報道された。

国会においてもこの発言に関する質問主意書が提出されたが、政府は、国側勝訴の判決と説明を加えた上で、憲法九条に違反するとの判決の部分は「判決の結論を導くのに必要のない傍論にすぎず、政府としてこれに従う、従わないという問題は生じないと考え」ており、田母神の発言は「政府と同様のこのような認識に立った上で〔中略〕必ずしも正確な表現ではないが、自らの言葉でこのような発言をしたものと承知している。また、防衛行政については、シビリアン・コントロールの下、法令に基づき、適切に行われている。」と答弁している[9]。

なお、退官後の12月21日に名古屋でおこなった記者会見の際にも高裁判決について「全く関係ねえです」と再度発言。更には直後の日本世論の会愛知県支部主催の講演で「あの時に『オッパッピー』までやっておけばよかった」、「侵略国家との誤った歴史観を改めなければならない」[10]と述べた。


東京大学・五月祭にて [編集]
2008年5月24日、現職の自衛官として初めて、東京大学五月祭にて安田講堂で、「極東の軍事情勢と21世紀における我が国の針路」というテーマの講演を行い「将来リーダーとなる東大の学生の皆さんは高い志を持って燃えて欲しい。上が燃えないと組織は不燃物集積所になる」などの発言をした[11]。この講演に先立ち、講演がおこなわれることを知った石破は上記の「そんなの関係ねえ」発言を受け、「いいですか。あなたは一個人、田母神俊雄ではありません。私の幕僚です。政府見解や大臣見解と異なることを言ってはいけません。いいですね」と釘を刺した[12]。尚、当該講演においても、戦前日本の侵略国家性への疑問について、後述の懸賞論文に書かれていたような論拠を示しつつ、多くの時間を割いて主張した。


核武装発言 [編集]
アパグループの元谷外志雄代表と親交があり、政界や言論人が集う「日本を語るワインの会」に参加していた。2004年9月15日、会合に出席した航空総隊司令官(当時)の田母神は「中国に対抗する勢力を作り、それを中国に認めさせるためには、日本が自立した国となり核武装を行うことが必要なのかもしれない」「最初から『日本は核武装を絶対しない』と宣言するのは馬鹿げたことだ」などと発言したことが明らかになっている。この会合には民主党幹事長鳩山由紀夫夫妻も参加している[13](日本を語るワインの会における発言顚末)。また、この時元谷が語った歴史観と後述の田母神の論文の内容と酷似していたとの指摘[14]もある。田母神は防衛の専門家として核武装は核抑止のための選択肢の一つとして述べているに過ぎず、NATOのようなニュークリア・シェアリング・システムを導入することも検討するべきだとしている。


ジョーク、ユーモア [編集]
上記に関しては各所で『田母神節』と呼ばれるほどである。

08年の週刊文春によれば幕僚長時代、自分の体格が小柄であることを題材に「自分は昔から歯に衣着せぬ発言で『慎重さが足りない』と言われてきました。しかし、私は言いたい。私に足りないのは慎重さではなく”身長”なんです!!」「各省庁のコンパクト化、スリム化が昨今言われていますが、防衛庁はまず幕僚長をコンパクト化しました」などのジョークを飛ばした。

また幕僚長解任後、「退職金を辞退するべきだ」との批判があったが最終的に受領。受領後に質問を受け「やっと女房、子供から温かいものを食べさせてもらいました」と笑わせたという。


最優秀藤誠志賞受賞論文 [編集]

趣旨 [編集]
「日本は侵略国家であったのか」
「真の近現代史観」懸賞論文#「日本は侵略国家であったのか」も参照


受賞決定 [編集]
田母神は、2008年10月31日、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』[15]に応募した「日本は侵略国家であったのか」[16]が最優秀藤誠志賞を受賞。「我が国はコミンテルンに動かされた蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「張作霖列車爆破事件も(中略)少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。コミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」「日米戦争はルーズベルトによる策略であった」「諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。」「アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速し、日本の伝統文化が壊されていく」とする説を展開した。なお、週刊新潮や朝日新聞など一部マスコミから、主催者と懇意にしていたため出来レースで受賞したなどと報道されたため、「金のために論文を書いたわけではない」として、12月8日に開かれた表彰式においては賞金300万円の受け取りを辞退し、賞状のみを受領している。


公表後の波紋 [編集]
「真の近現代史観」懸賞論文#航空幕僚長更迭も参照

田母神論文は「大東亜戦争は侵略戦争ではなく、中華民国やアメリカを操ったコミンテルンによる策謀が原因である」と主張するものであった。マスコミ等で、この論文の主旨が政府見解(村山談話、小泉談話)と違う歴史認識だとされ、それを外部に発表したこと、自衛隊最上層部への申請なく応募したとして、田母神は、防衛大臣から航空幕僚長の職を解かれて航空幕僚監部付となったうえで、60歳定年が適用され、11月3日を以て自衛隊を定年退官する事態となった。 これは田母神が自ら辞職する意志もなく、また処分手続きに協力する見込みもないことから、田母神の空幕長としての定年である2009年1月21日までに懲戒手続きが終わる見込みがないため、早期に田母神を処分するためであったと、防衛大臣の浜田靖一は説明している[17]。

この田母神論文に対して、近現代史の識者等より、基本的な事実認識に誤りが多いと評され[18]、引用元の『盧溝橋事件の研究』の著者秦郁彦からは、「通常の懸賞論文コンテストなら、選外佳作にもならない内容だ」と批判されている[19]。

一方、懸賞審査委員長を勤めた渡部昇一や、田母神の歴史感に近い西尾幹二などの保守系言論人が『WiLL』誌上などで弁護する論陣を張った。また日本テレビが行った電話アンケートでは政府の田母神に対する更迭措置を肯定する数字が高かったが、インターネットのアンケート(Yahoo!ニュースのクリックリサーチなど)やテレビ朝日の朝まで生テレビでの視聴者アンケートでは、田母神論文の内容についておよそ6割~8割弱が田母神論文を支持するという結果が出ている[20][21]。

また田母神の支持者からは「『言論の自由』は隊員にはないのか」という批判も発生したが、自衛隊法六十一条によって[22]隊員の政治活動は制限されており、政治的表現を持つ言論には制限がある。また、防衛省改革会議に防衛省から提出された資料では「自衛隊員が、有する経験や専門的知識に基づき適切な形で意見を述べることは、我が国の安全保障にとって必要なことであると考えている。」としながらも「しかしながら、いかなる場合でも、自衛隊員、特に航空幕僚長のような幹部は、その社会的立場に留意し節度ある行動をとることは当然である。実力組織である自衛隊を運用し、任務を遂行するという重い責任を有している自衛隊員は、自らを格別に厳しく律する必要がある」とされており、自衛官、特に幕僚長という立場の重さを強調している[23]。


解任後 [編集]
2008年11月9日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』に出演予定であったが、田母神への参考人招致が11月11日午前に参議院外交防衛委員会でおこなわれるため、番組出演を見送った[24]。同番組には、元海上自衛隊幹部の惠隆之介が田母神の代わりに出演した。

11月24日深夜放送(11月14日収録)の『たかじんTV非常事態宣言』に電話出演をし、「表現の自由や言論の自由は認められているはずなのに、どうしてここまで大きな問題になったのか自分でも理解できない。村山談話を批判した発言だと言うが、論文では村山談話を批判しているわけではない。ただ、最近の日本は、昔の日本は悪かった、悪かったと言い過ぎなので、このままでは日本はダメになると思い、発言をさせていただいた」とコメントを述べた。

11月30日放送(11月28日収録)の『たかじんのそこまで言って委員会』に、松島悠佐(元中部方面総監の陸将、現在は日本戦略研究フォーラム政策提言委員)、川村純彦(元統合幕僚学校副校長で海将補、現在は岡崎研究所副所長でやはり日本戦略研究フォーラム政策提言委員)とともに出演した。ここの話題でも、「自衛隊が、いつまでも日本が悪いという自虐史観を持っていては、自衛隊の精神が持たない」と述べた。また、核武装についても、「日本が唯一の被爆国であることから、きちんと核武装するかしないかの国会での議論はすべきだ」とコメント。本人は、「戦争、武力によって弾圧することはいけない。しかし、ただ、言論を述べただけなのに、こういう目に遭うのは困る」とコメントした。

表彰式のおこなわれた12月8日、日本テレビ系列のニュース番組『リアルタイム』に拓殖大学大学院教授の森本敏とともに生出演し、約20分間にわたり討論を展開した。

12月23日、日本会議熊本が主催して熊本市内で行われた「村山談話の撤回を求める熊本県民集会」講演で「制服自衛官の99%が私を支持していると思う」と主張した[25]。

12月26日放送の日本テレビ系列の『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』のスペシャル番組『太田総理の証人喚問!2008年世間を騒がせた21人を徹底追及SP』に出演。登場時証人席でいきなり敬礼し「危険人物の田母神です」と発言、その後「田母神論文問題」について証人喚問され、自身の歴史観など一連の真意について語った。

また、同日発行のフライデーで田母神は「2年前に防衛大学校長が、新聞紙上で自衛隊のイラク派遣反対の意見や小泉総理(当時)の靖国神社参拝反対の意見を公表しました。防大校長も自衛隊員ですが、その発言の責任を問われる事はありませんでした」と反発した[26]。防衛大学校校長は身分としては防衛省(当時は防衛庁)職員となるが、学者としての側面もあるため政治的提言を行うことは慣例として認められており[要出典]、純粋な自衛官とは立場が異なる[要出典]。西原正は校長在任期間中に小泉首相の私的懇談会「対外関係タスクフォース」に参加しており、当時の五百籏頭真校長も福田内閣の外交政策勉強会、防衛省改革会議に参加するなど政策提言者としての行動を行っている。なお、2004年3月の海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式では石破茂防衛大臣は「自衛官は政治に関与してはならないが、政治に対して関心を持つべきだと私は思う。 (略) 専門的な立場で意見を申し述べることは諸官の権利であり、同時に民主主義国家における自衛官の義務だと思っております。」(「文藝春秋」2009年1月号)と述べている[27]。

2009年1月30日放送のフジテレビ系列の『クイズミリオネア』ではビートたけしの応援として、たけし軍団とともに駆けつけた。軍団の一員である水道橋博士は自身のウェブログで「田母神さんをたけし軍団に迎え」と記述しており、田母神が軍団の一員となった可能性がある[28]。

2月19日、日本の前途と歴史教育を考える議員の会に招かれて自民党本部で行なった講演では、改めて自分の正当性を主張。石破から“空幕長ともあろう人があんな偏った歴史観では困る”と苦言を呈された事に触れ「偏っているのはあなただと言いたい」と発言。更迭についても「辞表を書かなかったのは『ごめんなさい』と言いたくなかったからだ。一部調査では6~7割が私を支持しており、もう少し頑張った方が良かったかもしれない」と強調。出席者からは「そうだ」「興味深い話を聞いた」と賛同の声が上がったという[29]。

2月28日、名古屋の市民サークル若宮会講塾主催の講演会「拉致問題と国防」において、家族会事務局長増元照明、特定失踪者問題調査会代表荒木和博とともに北朝鮮による日本人拉致問題をテーマに名古屋市内で講演し「自衛隊を動かしてでも、ぶん殴るぞという姿勢を(北朝鮮に)見せなければ拉致問題は解決しない」と述べた。田母神は記者会見で「『ぶん殴る』とは具体的には何か」と質問されると「自衛隊を使って攻撃してでもやるぞという姿勢を出さないと、北朝鮮は動かない」と答え、軍事オプションを圧力の一環として威嚇することの重要性を訴えた[30]。

3月13日の朝鮮新報が、上記の田母神の発言に対して朝鮮中央通信が3月10日に非難を行ったと報じた。同通信は、田母神を「日本軍国主義勢力の代弁人を自称し、内外の糾弾にさらされている極悪な右翼反動分子」だと指弾し、この発言を「反朝鮮対決と戦争の狂信者だけが吐くことのできる許しがたい暴言」「朝鮮半島をはじめアジアと世界を征服しようとする日本の反動層の再侵略野望が頂点に至っていることを示すもの」「朝鮮の自主権に対する挑戦、アジアの平和と安全に対する脅威」だと指摘していた[31]。

3月22日、長良川国際会議場メインホールで行なわれる「国益を考える講演会」(発起人は森勇・元岐阜県議会議長)にて特別ゲスト(講演者は青山繁晴、志方俊之、菅沼光弘)。

「日本の侵略戦争説」を否定するという、これまで自衛官にはタブー視されてきたことに立ち向かった田母神は、保守派に人気が高く、多くの講演に招かれている。2009年2月時点での講演回数は実に24回に及んでいる。田母神は、「『核兵器を持たない方が安全』と言うのは、日本の政治家だけ」「東京裁判は復讐劇だ」「(植民地支配を謝罪した)村山談話を踏まえた幹部教育をしたら、自衛隊はつぶれる」と述べた[32]。また、田母神は自身の人気について「日本が謝罪ばかりしていることに『何かおかしい』と感じていた多くの国民が、私の発言にストンと心に落ちるものがあるのでは」との考えを語っているほか、「日本には反日的な言論の自由はあるが、親日的な言論の自由はない」と述べている[33]。

2009年3月初旬の週刊新潮のインタビュー記事によると、講演や著書執筆などで多忙の日々を送っており、趣味のゴルフに出掛ける機会もめっきり減ったと語る。当記事では田母神の退官後の推定年収は現役時代の約4倍に達する勢いと言う。また、自著の『田母神塾』において、複数の政党や政治関係者などから出馬要請を受けたが、本人にその意思はないと断っているとの記述がある。


人物像 [編集]

合衆国空軍記念碑に献花(2008年8月19日)安全保障など政治問題に対しても直接的な発言をすることで知られており、時には論議を呼ぶ発言をおこなうこともある[34]。「航空自衛隊幹部学校幹部会の隊内誌『鵬友』でも「航空自衛隊を元気にする10の提言」(連載全4回 2003年7月号から04年9月号まで)、「日本人としての誇りを持とう」(07年5月号、幕僚長着任後)など、侵略の意図を否定し、“正しい歴史認識を”と繰り返し主張し続けている」としんぶん赤旗は報じている[35]。


備考 [編集]
「田母神」姓は福島県に縁のある姓である。福島県郡山市田村町にある山村地帯に田母神地区がある。同地は坂上田村麻呂の母の出身地といわれている。また福島県内には同じ地名が他にいくつかある。意味であるが、田を守護する神から来た地名で、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するといわれている。またオートレース選手の田母神昇も同じ福島県出身である。

田母神と同じように発言が原因で自衛隊要職を解任された高級幹部に栗栖弘臣統合幕僚会議議長(当時)がいる。1978年7月に「週刊ポスト」誌上で、「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲侵略を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す発言をしたが、これが“超法規発言”として当時の防衛庁長官・金丸信に事実上の解任(金丸が「困っている」と伝えると、栗栖が辞表を提出)をされた。この時は「自衛官の言論の自由」が議論されることはなかったが、栗栖の指摘により有事法制が議論されるようになり、後に武力攻撃事態対処関連三法が制定される契機となった。

航空自衛隊幹部自衛官のサークル航空自衛隊幹部学校幹部会「鵬友」発行委員が発行する『鵬友』第29巻第6号(平成16年3月号)に寄稿した「航空自衛隊を元気にする10の提言」パートIIの内容で「身内の恥は隠すもの」と記している。同じ文の中でウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの存在を肯定している。


年譜 [編集]
1967年(昭和42年)3月: 福島県立安積高等学校卒業
1971年(昭和46年)3月:防衛大学校卒業(15期、電気工学専攻)
1986年(昭和61年)1月:2等空佐昇任
1990年(平成2年)1月:1等空佐昇任
1991年(平成3年)8月:航空幕僚監部防衛課
1993年(平成5年)12月:第3航空団基地業務群司令
1995年(平成7年)6月:航空幕僚監部厚生課長
1996年(平成8年)7月:空将補昇任
1997年(平成9年)3月:南西航空混成団司令部幕僚長
1998年(平成10年)7月:第6航空団司令
1999年(平成11年)12月:航空幕僚監部装備部長
2002年(平成14年)12月:空将昇任、統合幕僚学校長
2004年(平成16年)8月:航空総隊司令官
2007年(平成19年)3月:第29代航空幕僚長
2008年(平成20年)
10月31日:民間の懸賞論文へ応募した作品が日本の過去の侵略行為を正当化する内容で、政府見解と対立するものであったことが問題視され幕僚長を更迭、航空幕僚監部付となる。同日付で「航空幕僚長たる空将」から空将となったことにより一般の将と同様の60歳定年が適用、6ヶ月の定年延長が発令される。
11月3日:定年延長が本日までとされ、同日付をもって定年退職。



関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、田母神俊雄 に関連するカテゴリがあります。戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話
真珠湾攻撃陰謀説
文民統制
歴史認識
藤尾正行
奥野誠亮 
永野茂門
桜井新  
江藤隆美
平沼赳夫
西尾幹二    
西村眞悟 防衛政務次官 を短期で辞任
日本会議  

外部リンク [編集]
田母神俊雄公式サイト『田母神.org』
田母神論文と自衛官の名誉を考える会
田母神俊雄(防衛大第15期同窓会 『航空自衛隊を元気にする10の提言』へのリンクあり)
小泉談話
揺らぐ文民統制(東京新聞「特集・連載」)
第12回防衛省改革会議 防衛省提出資料「防衛省改革の取組みについて」
先代:
吉田正 航空幕僚長
第29代:2007年 - 2008年 次代:
外薗健一朗

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最終更新 2009年4月20日 (月) 06:37