隠久日記(こもりくにっき)

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして  山上憶良

通勤写真

2018年12月01日 | 日々

写真は仕事場に近い公園と最近できた放送局の建物。毎週のように繰り返し撮っている。

仕事で町中へ出た時は、カメラを携え仕事前の30分くらい撮影をする。写真は見飽きたなどと画家としてあるまじき感慨を覚えそうなものを撮る。一期一会にカメラの出番はない。職業写真家ではないのだから、かけがえがないと感じたものは、それを味わい記憶に留めることに全力を尽くす。写真を撮ることで何を失うのかを忘れないようにしている。

実際の撮影では無意識にも形と階調を追っているから、ある意味デッサンの訓練をしているようなものだ。写真としては傍流である。

この頃昔手に入れた写真全集を見ているが、昔と今では好みが変わった。芸術写真への興味は薄れ、あまり見ることのなかったドキュメンタリーやフォトジャーナリズムに惹かれる。例えばトロツキーの演説の隠し撮りや作者不詳のスターリングラード攻防戦などに写真の力を感じてしまう。

今日は、絵を乾かしている時間を使ってサギソウの球根を採取した。最盛期には40個近く採れたが今回はたったの5個、絶滅寸前。群生を好む特性を考えると来春には球根を買い足すべきだろうか。

長谷川資朗のホームページ 画房「初瀬」



いしのちから

2018年11月23日 | 徒然

制作は構想からエスキース、そしてカンバスへと順次移って行く。特に源氏物語シリーズは帖の中で何処にスポットを当てるかでモチーフの花も変わってしまう。構想を急いてはいけないし、エスキースが出来ても数日伏せて置いて、改めて見直すと後悔も少ないものだ。頭を冷やして客観的に再検討してからカンバスに向かう・・・・・・・

もっともな考えに思えるが、反動にように浮かび上がる記憶がある。

それは、モオツァルトの作品の、殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或いは不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するという様な時間は、彼の生涯に絶えて無かったのである。而も、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺してはいない。     「モオツァルト」小林秀雄

ひたすら絵を描こうとしても、生活雑事の邪魔が入る。しかし、それが作品を生み出す環境である。芸術制作への理解、そんなものはありもしない妄想だ。

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自分で考えよう

2018年11月16日 | 日々

仕事に車で行く際は渋滞を予想して早めに出るので、仕事の時間まで20〜30分の暇が見つかることがある。撮影に特別な時間を割けない私はこのような機会に写真を撮る。駐車場の近辺をパチリ。

読書も同じで、食卓にはブックスタンドが載っている。一行読んでは考え込むことも多いので、「ソドムとゴモラ 2」・「感想(ベルグソン)小林秀雄」、ここ数ヶ月同じ本が開いてある。今朝の一行をひとつ。

模倣の本能と勇気の欠如とは大衆を支配する。

プルーストのこの本を読むのも5回目だが、時々彼の強烈な皮肉が鼻につくこともある。あまり本当のことは言わない方が良い。

作品の技法について質問を受けることがあるが、私の技法はありきたりのものの工夫からできているので、秘密を明かせば容易に真似されてしまう。それでいつも内心返答に困る。もっとも作品自体を子細に見ればかなりの部分は推測できるはずだから、自分の目で見て確かめれば良いと思う。そのくらいの想像力が無い人は、鑑賞にしても創作にしても元々芸術とは関係ない人々である。

あっ、プルーストが伝染した。

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ドバイと無趣味

2018年11月13日 | 徒然

秋の個展の後も休みなしで制作は途切れることなく続いている。

来年4月のワールド・アート・ドバイの誘いを受け、ワールド・トレード・センターにブースを頂いたので、それに追加する新作を急いで描かねばならない。海外の展覧会となると作品の受け渡しの他、様々な準備を会期よりかなり前に行う必要がある。

常に制作に追われている身だが、意地でも「忙しい」とは言いたくない。気持ちにゆとりを持ち、絵を描くこと以外の時間を僅かでも確保したいと思う。

何も趣味を大切にしていると言うのではない、逆に昔から趣味など要らないと思っている。写真を撮るのも本を読むのも趣味ではない。写真が下手で理解力が足りないから撮っても読んでも楽しいと感じることは少ない。しかし全ては自分の絵に繋がる。妥協の精神は伝染する。

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絵描き絵を描かず

2018年11月02日 | 日々

来週からの個展が近づき、そのための「製作」で忙しくこのところ絵を描いていない。

絵を額に入れて壁に掛けると言うのは絵画受容形式のひとつにすぎないし、額縁は明治以前の日本の伝統的な絵画鑑賞形式では不要なものだった。数年前、自分の絵画様式の源泉を日本の伝統文化に求めて出来た最初の作品は額縁に入ることを拒絶してしまった(物理的に入れることは可能だが)。しかし、作品自体は工芸的繊細なものなので保護のためケース等に入れる必要があった。

そこで考えたのが角箱の利用なのだが、市販のものそのままでは使えないので、ベルベットを貼ったり金襴の枠を作ったりと、いわゆる絵が完成した後の作業が増えた。特に個展直前にはそれを数作品分まとめて作るので展覧会が近づくと絵を描く暇が無い。



もっとも、普通の意味で油彩で絵を描いているのは、万葉集シリーズでは人物の顔と手、源氏物語シリーズの花の部分だけで、全行程中の十分の一にもならないだろう。膨大な制作時間の多くは「油絵具と言う物質を文様の形に置いていく」作業である。私の作品では、油絵具は絵を描くためよりも、「工芸的な素材」として扱われている。

私の創作のなかで、「絵を描いている」時間はそれほど多くない。油彩を西洋絵画から切り離し、日本の物作りの伝統へと入れたのである。

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