めじろ台  新屋鮨

伝統が育んだ日本の味ーすし
その繊細にして優雅な味わいに

まんま?

2006年08月16日 | オヤジ若き日の寿司修行

ヤヴァ~イ。週1回の更新。しかも水曜日。なんで?

なぜか日々これと、戦っているせいなのでしょうか?

それとも、ネタに逝きずまったのでしょうか?・・・・

しばらくネタ探しの旅にでも出たほうがいいですかね。

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二代目 その3

2006年04月02日 | オヤジ若き日の寿司修行
 「味」というものは時に変るものだと心得ています。個人各々が食べようとしている物に対するイメージと雰囲気や応対などがお客様の思い(想い)とかみ合わないと、「味」は伴わないでしょう。そのためには如何にすればよいかをよく考えさせられます。
また「味」というものは客観的な要因に左右されやすく、一方で「味覚」を無視する事はできません。
自分が旨いと思っていても自分以外の人は美味しくないと思う事もあるかもしれません。好き嫌いがあるのは仕方がないにせよ、自分が美味しいと思っても美味しくないと思う人がいるかもしれないという事を忘れてはいけないと思っています。
人にはそれぞれの人生の財産とも言うべき味覚があるのですからそれを押し付けてはいけないのです。年齢を重ねると次第にその味覚も変ってくるかもしれませんが、お客様の嗜好を察し、お客様の感覚に合わせながら仕事を進めていくことが大切だと私は思います。
非常に難しいと思いますがこれは修行の積み重ねによっては解るかもしれません・・・・。
 18歳から修行に入り、はや25年。勉強嫌いのお陰で早い時から寿司屋に入りましたが、最初の頃は長時間に及ぶ仕事と遊びたい歳でもあり何回か逃げ出した事もありました。しかし、戻って来てはまた使ってくれた修行時代の親方。そんなことも親方は察していたので私を怒るより宥めながら修行をさせてくれました。
お陰でいつしか自分に自信とプライドなどが付いてくるようになり、時にプライドを張ったりした時はよく叱られたものです。
プライドを押さえつけられればすぐに頭にきて、態度が顔に出る事もよくあった時に親方に教わった言葉は、
「我は、張るものでなく広げるもの。プライドは、出すものでなく作るもの。頭は、来るものでなく使うもの。」でした。その言葉を日々思い出しながら「二代目」を過ごしてきました。
これからもお客様からいろいろ言われる事に頭に来ないで頭を使い、教えてくれているのだと心から思い、長く続けて勉強をし、ジジイになっても若い職人には真似のできない、のんびりゆったりした動きの中に「味」のある寿司を作れるジジイになれればいいなー と思っています。
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二代目 その2

2006年04月01日 | オヤジ若き日の寿司修行
 私がこの店に職人として来る前からずーっと長い間御贔屓にして下さっているお客様はとても有難く、一から店を始めていればいきなり沢山のお客様には可愛がっていただけません。それを思うと今は非常に恵まれています。
先代の親方様には私より1つ年下の息子さんがいましたから、本来、息子さんが後を継ぐと思っていましたが、まさか私がやることになるとは・・・・
しかし、いろいろ言って下さるお客様はなにかと期待をしてくれているのですから、頑張る以外に手立てはないのです。
沢山言われ、また沢山教わった事が今では大きな宝になっています。
 バブル崩壊直後の店は、しばらくは安定感もあったのですが少しずつ不況の波は押寄せてきました。
だんだんとおみえにならなくなるお客様。私が旨いものを出さないから来ないのではなく、本当に来られなくなったお客様が多くなり、一方でいろいろ言われ続けてやっと13年です。20年以上も前から来店して下さっているあるお客様は昔5,6歳の子供を連れていましたが、その子供も今では家庭を持ち子供を連れてきてくれます。
 そんな中、あるお昼時に20年ぶりにおみえになったお客様がいまいた。話を聞きますと、20年前は御両親と一緒にめじろ台に住んでいてよくご家族でお店におみえになっていたそうです。
今日おみえになったのは、お母様のお墓が店から歩いて15分くらいの所にあり、そこにお参りした帰りという事でした。
そこで昔よく家族で食べに行っていたところに行ってみたくなり、当店で昔を思いだしながら愉しくお寿司を召し上がられたようです。
すると突然お食事の最中、カウンター越しに私に「すみません、20年前いましたか?」と訊ねてきました。
見ると彼女の目からは、涙が1つ落ちていました。お寿司の味が20年の歳月を飛び越え、心に昔の新屋鮨を甦らせたのでし
た。当時、味に少し自身を失いかけていた私にとって起死回生の出来事でした。
私は2代目でここにきて19年。もちろん20年前はいませんでしたがこうやって昔を思い出し、その味を覚えていてくれるようなお客様がいると思うと、店のスタイルは変えないように、そして味を変えることのないように頑張らなくてはいけないなとつくづく思いました。
やはり昔の面影も大事ですよね。
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二代目 その1

2006年03月31日 | オヤジ若き日の寿司修行
【二代目になって】
私がこの新屋鮨にきて19年、二代目になって四月一日で13年が経ちます。
二代目になるちょっと前の27歳の頃だったでしょうか、先代の親方様の経営のもとでは店長として店を任されるようになりました。“任される”ということは現在と同様、仕込みや味付けなどの全てを私がやると言う事です。
そして29歳の頃、先代から店を引き継いでくれないかと相談されました。私にとってはいいお話でお受けしたいと思っていた時、結婚して8年目、長いこと恵まれずあきらめかけていた子供ができたのです。引継ぎの話は一旦途切れ、子供が産まれて暫くしてから改めて引継ぎの話をいただき、考え相談をしてからお受けすることにしました。
この時30歳。家内と0歳の子供と一緒に自分の店をスタートしたのです。
 お店をそのまま受け継ぐと言うことは御ひいきにして下さっているお客様にまずお知らせしなくてはなりません。宴を設けお客様に集まっていただきその席で先代の挨拶のもと、私を紹介していただきました。その時の私は「宜しくお願いします。」と頭を下げただけで、緊張の余り何も話すことが出来ませんでした。その時のお客様は「ろくに挨拶もできないこんな若造が店をやっていけるのか?」と思ったに違いありません。宴会にお見えになっていたお客様は皆知っている方ばかりでしたが、何分とも人前での挨拶が非常に苦手でした(今もダメです)。
いざ始めてみますと風あたりは凄いものがありました。かたや見習いは次々と辞めていき、残る従業員の教育とお客様確保のためにはどうすればよいのか考えさせられました。もちろん宴会の席で報告したお客様は一部のお客様で、後から代替わりを知ったお客様もいます。
そのお客様がいらした時など「どうりで味が変わったと思ったよ。」と言い捨てて次からお見えにならなかったり、また、別のお客様には「オヤジはどうした」と聞かれ「ハイ私です。」と答えると「おめぇーじゃねぇーよ。」などとも言われたりして、それはもう頭にくる事ばかりでした。
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オヤジ若き日の寿司修行(アメリカ編) 最終回

2005年09月18日 | オヤジ若き日の寿司修行

 その日の夜の仕事を終えて寮に帰り、食事をしてから日本に電話をしました。 誰に電話したかというと、このアメリカでの仕事の話をくれた方に、です。事の状況を飾ることなく全てをお話して頂いた言葉は「判った。すぐに帰って来い!」でした。私は、ほっとしたのか、涙が止まりませんでした。

 悔しかったというか、情けなかったというか、残念というか・・・私はアメリカに店を持ちたかったから来たのに、そのため自動車免許を取ろうとして3回も落ちて、諦めずにもう一度受けに行こうと思っていたのに・・・もう諦めるしかありません。


 翌日、普段どおりに店に出て始めた仕事は、前の日に電話で言われた事でした。「辞めるからには、今までやっていた所を綺麗に整理して帰ってきなさい。」と言われていたので品物の整理と掃除を一生懸命やり、開店前に経営者Bが見えたので、事務所に行きました。そして昨日の返事を言いました。
 ドアをノックして「失礼します。おはようございます。社長、昨日の返事ですが、辞めさせて頂くことにしました。」と言うと経営者Bから、「わかった、今日中に寮を出ていくように。」と言われました。そして経営者Bはキッチンに行きマカナイの人に「あいつらに飯を食わせなくていいから。」と言っては「何故だよ!」と今度はマカナイの人と言い合いになっていました。
 朝の食事も戴けず、板場を綺麗に片付け荷物をまとめて、社長に「こいつらを寮まで送っていけ。」といわれた従業員に寮まで送ってもらいまいた。アメリカに来てまだ2ヶ月、周りには伝手もなく、寮を出て何処へ行けばよいのでしょう。

 途方に暮れていると、優しい日系の鉄板シェフが「僕の家に泊まりなよ。」と寮に迎えに来てくれました。この優しさに比べ経営者Bの冷たさ。あれだけのことを言うのだからこのぐらいはあたりまえですか???  
まだアメリカの右も左も判らない、車の免許も無いそんな人間をポイ棄てなんて、いい加減な人だったのかも知れません、あの経営者Bは。そんな事も知らずにのこのこやって来た自分は・・・情けなかった。実に。

 鉄板のシェフに彼の家に連れて行ってもらい、我々を降ろすとシェフは店に戻り、我々はシェフが仕事を終えて帰るのを待ちました。待っている間は何も勝手が判らず、そのうちに帰ってきた彼の奥さんには、英語がしゃべれないのでどう説明していいのか分かりませんでした。しかし奥さんは聞いていたのか、帰ってきて我々に「ハーイ」とだけ言って下がっていった時はホッとしました。
 でも何をして待っていればよいか、テレビをつけても解らないし、本を見ても解らない。寝ているしかありません。シェフが帰ってくると、経営者Bからの言伝で日本の経営者Aに電話をするように言われたので電話をすると、「飛行機のチケットを取るからそれで帰ってきなさい」と言うことでした。

 今まで辛くはなかった。楽しかった。帰りたくはなかった。しかし、こうして半年だった予定のアメリカ生活も2ヶ月で終わるということになりました。  帰国後すぐに経営者Aの所に行き、帰るに至った事情と、約束の金額の給料をいただいていない事の説明をすると、経営者Aはやはり共同経営の相方を信用していたらしく(あたりまえですよね)我々の言う事は信じてない様でした。
 もう帰ってきてしまったのだからどんなに言い訳してもしようがないと思い、不足分の給料を戴いてもう会うことも無いと思いながら帰りました。でも、いい経験をさせていただきました。


 帰らずに1人残る事も出来たのですが、若い衆を預かって来たからには“1人で帰れ”と言うわけにはいきません。ちゃんと親元に連れて帰らなくてはいけませんから・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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