仏教

仏教についてです。

親鸞聖人の大遠忌

2021-07-08 | インポート
 思えば親鸞聖人は、当時、平安から鎌倉へ時代が移りゆく時、いわゆる源平が激しく鎬をけずる不安と混乱の世にあって、仏法こそが絶対の安心と無上の満足をもたらすものと固く信じられた。
そして天台の教えに若き血潮をたぎらせ、二十年間決死の御修行をあそばされた。
しかし、天台宗等の自力聖道の教えでは煩悩具足の凡夫は絶対に助からぬ事を体験なされたのである。
真実を渇望されてやまなかっただけに、その失意たるや想像に余りあるものであったに違いない。

 ところが法然上人とのめぐり合いは、聖人を再び生きかえらせた。
枯渇しきった聖人の心は、法然上人の御口から流れ出る法水を貪欲なまでに求めずにおれなかった。
そして二十九才の春、聞即信の一念に阿弥陀仏の救いに値われ大安心の幸福、大満足の慶びを味わわれたのである。

 煩悩具足、罪悪深重の我々凡夫の助かる道が顕らかになったのは実にこの時であった。
聖人のこの熾烈な求道そして不可思議な体験がなければ、我々の人生究極の目的は永久に定まらなかったであろう。
時代は異なっても不安と混乱はいつまでも続く限り、一時も早く安心立命の世界へ雄飛せねばならない。
その為には「信心決定」以外に絶対に無い事を聖人の鮮やかな体験により知らされた我々は何という果報者であろう。

 その上、聖人は他力真実の信心の妙味を命をかけて、友達といさかいをし、御長男善鸞を勘当してまで開闡して下された。
無碍の大道を歩まれた聖人の生き方は、全人類に人生の最高指針を示されたまさに世界の光である。

 ところが今日、猫も杓子も「親鸞聖人」を語り、書き、世に弘めているが、聖人のこの最高無上の信心決定の体験を明らかにし、それを勧める者がどこにあろう。
聖人を念仏の奨励者にしたてる者、道徳の権化にまつる者等、余りにも聖人の真意は誤解、曲解、ネジ曲げられているようだ。
甚しきは聖人御生誕八百年を良い事に金儲けを企む者が真宗僧侶の中にいるような始末。
言語道断である。

 当に誤まれる聖人のみ教えを正し、真意を顕らかにすべき無上の勝縁である。
この勝縁を迎え、参加できることは何と勿体ない事であろう。
一刻も早く信心決定し、本当の親鸞聖人のみ教えを全世界に伝播するよう、親鸞学徒一同心を引き締めねばなるまい。



なぜ破邪顕正に徹し切らないのか

2020-10-23 | インポート
 受け難き人身を受け、遇い難き善知識に遇わせて頂くほどの幸せは他にない事は今更いうまでもないが、
浄土真宗の門徒は果してどれほどその幸せを感じているだろうか。
親鸞聖人の血を吐く雄叫びにどれだけ相応しているだろうか。

「破邪顕正せざる者は仏弟子に非ず、仏の怨敵なり」(涅槃経)
を金科玉条として真実開顕に挺身された親鸞聖人を絶対無二の善知識と仰ぎ、随順してゆくのが浄土真宗の門徒である。
ならば当然「破邪顕正」を唯一の旗印にかかげて苦悩の巷に突入して自他ともに信心決定に近ずけなければならない。
そうしてこそ真実を知る者の喜びといえよう。

 ところが真宗の道俗のほとんどは、
「私にはそんな大それた破邪顕正などできない」とか
「宿善さえあれば勧めずとも仏法を求めるようになるのだから、相手に縁が来るのを待つしかない」
といって一向に破邪顕正しようとしない。

たとえ殊勝にも破邪顕正してもちょっとカベに突き当ったり、経済的負担が重なってくるとたちまち挫折してしまって続かない。
そして人がどんなに迷信におぼれ邪信に迷うて不幸になっても見て見ぬ振りをして自分だけいそいそと聞法の場へ出かけていき、
「こんな我利々々亡者をお助けの阿弥陀仏」とソラ涙を流して喜んでいる始末である。

 これでは万劫聴聞しても信心決定はおぼつかない。
破邪を厭い、顕正を嫌う者は仏法者でもなければ求道者でもない。

 見よ!あの悲壮な目蓮尊者の殉死を。
邪教徒をして憎悪と敵意を呼び、リンチ殺人を誘発したあの烈々たる破邪顕正こそ真の仏弟子の勇姿ではないか。
「たとえ手石、刀杖で打擲され、殺されようとも一句の法門を弘めるためなら死んで本望です」
と大覚悟をして布教の途に出た富楼那尊者こそ真の菩薩ではないか。

そして今日、「たとえ一人になってでもいい、知己を千年後に求めてこの真実を叫び続ける」
と大自覚なさる親鸞聖人も又、破邪の闘士、顕正の菩薩となっておられるのである。

 今こそ真宗の道俗は、すべからく親鸞聖人の雄叫びに随順して釈尊、親鸞聖人の御教えに相応せねばなるまい。
相手の仏縁、経済的負担で破邪顕正を躊躇している時ではない。
否、躇躇しているから不活の怖れがあり破邪顕正に徹し切らないから金剛の真心が徹到しないのだ。
「道信の家には衣食あり」で破邪顕正に邁進する者に不活の怖れなど断じてないのだ。
「まことに一人なりとも信を取るならば身を捨てよ、それはすたらぬ」
の蓮如上人のお言葉をよくよくかみしめ、
浄土真宗の親鸞学徒はいよいよ聖使命達成に努めなければならない。




平生業成の浄土真宗での本当の意味

2020-10-20 | インポート
平生とは臨終に対する言葉で平常の時をいい、業成とは業事成弁の略語であって、
往生の業因が完全に成立したことをいう。
すなわち、臨終の時節をまたず、平生信心獲得の一念に往生の業因が成就して将来浄土に往生することに定まったということである。

 平生業成という語は覚如上人にはじまったといわれ、浄土真宗の骨格をなす最も大切な言葉の一つである。
この世で我々の助かることを最も端的に表現された言葉で『口伝鈔』には
「善知識にあって聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども業事成弁すれば体失せずして往生すといはるる歟、本願の文あきらかなり」と示され、浄土他流の臨終業成に対されている。
これを平たい言葉であらわせば、現在只今、絶対の幸福に助かるということである。

 しかしながら今日、本来の意味とは掛離れ、似ても似つかぬ方向へと誤解されたまま、使われているのが実状のようである。

「あそこの婆さん、平生ゴウジョウ悪かったから目むいて死んだ」とか
「あそこの嫁さん平生ゴウジョウ悪かったから離縁になった」
というように業成があたかも行為行いという意味に使われている。
これでは
「あそこのばあさん、助かったのが悪かったので、目むいて死んだ」
となり、チンプンカンプンなことになってしまう。

「他力本願」が他人の提灯で、あかりをとるといったように
「他人の力」の代名詞のように誤解されたまま、それが社会通念として定着化され、
マスコミが堂々新聞紙上に活字を並べている様に(本来の他力本願の意は阿弥陀仏の力のみをいう)
平生業成も行為という間違った意味の方が一般化され、
何の不思議さもなく社会に受け入れられていることは非常に残念なことである。
しかし決してこのまま放置しておいてよいものではない。

我々知った者から間違いを糾し、正しい意味を明らかにしていかなければならない。

 と同時に真宗の僧侶が堂々「死んだらお助け」などと祖師聖人が破邪された臨終業成(体失往生)を叫んでいるのは、
平生業成を金看板とする浄土真宗を冒涜するものであり、自ら他流の僧侶になり下ったことを証明している何よりの証拠である。
我々はこれをも破邪顕正し、正しい平生業成の意を顕わさなければならない。




不撓不屈の小野田寛郎さん

2020-10-16 | インポート
グアム島で発見された横井庄一さんが最後ではなかった。
今度はフイリピンのルバング島で元日本兵が見つかった。
小塚金七さんは不幸にして“戦死”したが傷つきながらも再びジャングルヘ逃げかえった
小野田寛郎さんは大がかりの捜索に何の反応も示さない。

小塚さんの遺品などからも戦争のおわったことは先刻承知のはず、
昼夜をとおしての肉親、戦友、当局の必死の救出よびかけにも応ぜず、
なぜ一人戦後をこばみ、かたくなに沈黙をまもっていたのだろうか。

母親に交した最後の言葉が
「たとえ戦死の通知があっても信用するな、僕は必ず生きて帰ってくるから二十年間は葬式を出さないでくれ」だったとか
「呼びかけも投降ビラも小野田少尉にとっては相手をたぶらかす作戦と訓練された」
元陸軍中野学校の特務学校であったことがそうさせているのだろうか。

一人になった今、病気になった時の死の恐怖、
すぐそこまで迎えにきている肉親への情愛になりふりかまわず姿を現わしたい衝動をもこらえ(?)
戦後二十七年諜報任務を遂行しなければならない理由をどこに認めているのかは知る由もないが事の是非は別として、
まさに死を賭しての使命感には頭がさがる。
1974年にようやく元上官の命令で戦闘状態を解除して投稿した。

それにひきかえ、合理主義の名のもとに、とかく御都合主義に走りやすい今日、
浄土真宗の教えを伝える親鸞学徒の聖使命に命を賭している者がどれくらいいるのだろうか。



浄土真宗の往生とは

2020-10-13 | インポート
私達は日常生活の中で、よく往生という言葉を使う。
しかし、往生という言葉の正しい意味を知って使っている人は非常に少ない。

たとえば「昨目、山の中で自転車がパンクして往生したわい」とか
「うちのお婆ちゃん昨日往生しました」とかいう場合に、
往生という言葉を使っている。

 往生を弱ったこととか、困ったとか、死んだことという意味に解釈しているのである。
辞典を繰ってみても、往生とは「死ぬこと」とか「処理に困ること」とある。
いずれの場合でも、よくない時に使われている。

しかし言葉には語源があり、往生の語源は仏教だから、仏教の意味に順わねばならない。

では往生という言葉の正しい意味は何か、往生とは二通りの読み方がある。

一つには「生かされて往く」と読む。
一切の人々は、科学、医学その他の文明の進歩とは関係なく生死の苦海果てしなく、苦悩し続けている。
その私達を何とか助けてやりたいという大慈悲心をおこされ、
「我を信じよ、どんな苦悩もあますところなく抜きとり、
この世も未来も、最高無上の幸福にしてみせる。
若し絶対の幸福にできなかったら仏の命をすてよう」
と阿弥陀仏は約束なされている。

 この阿弥陀仏の本願を信ずる一念で我々は絶対の幸福の身に救われ苦悩渦巻く人生が、
光明の広海と転じ、現在只今から大安心(明るい)、大満足(楽しい)の心で生活させて頂き、
強く、明るく、たくましく生きぬくことができる。

 だから阿弥陀仏の本願によって生かされて往くことを往生というのである。

二つには「往って生まれる」と読む。

 現在阿弥陀仏の本願に救われ、大安心、大満足の身になった者は一息切れた後、
阿弥陀仏の浄土に往って仏に生まれることができるこれを往生というのである。

 このように往生とは、現世の往生と、死後の往生と二通りある。
どこにも良くないという意味はないのであるから、断じて弱った事死んだ事に使ってはならない。

往生の意味と使い方は、こちらにも詳しく解説されている。