津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」九、本能寺

2021-10-09 06:39:43 | 書籍・読書

      九、本能寺

 梅雨も終らうといふ間際だのに、城山の谷では昨夜から杜鵑が啼き續けに啼いた。
不思議な憂鬱におそはれて、藤孝は殆どまんじりともしなかつた、暁闇の退ききらぬ
時刻、割れんばかりに城門を叩いたのは、本能寺の變をしらせる、京都からの早飛脚
であつた。城門を開けると、泥足のまゝ廣間に走り上り、文箱をさし出した。
藤孝は、もちろん驚愕した。乍併驚愕よりも哀感が深く、哀感よりも絶望の念が大き
くなつて來た。頼朝の薨去を傳聞した定家は「朝家大事何事過之哉、怖畏逼迫之世歟」
と明月記に誌した。國家を泰山の安きに置く偉人の死に遇つて、藤孝も定家と感を同
じくしたのであつた。應仁以來百餘年苅蘆と亂れた天が下を拾収し、一日も早く蒼生
を安んじ度いのが、武將藤孝の初一念であつた。彼は足利將軍の淫樂と暗愚とに失望
した。信長に仕へて、斯の人こそ倚頼してゐたのに、足もとの大地が忽焉として陥
没したやうな今朝の凶報である。
 絶望の眼の底にいつしか薄明りが射して來て、羽柴秀吉の姿が髣髴とした。藤孝は
即刻出陣の用意を命じたが、蝶者の報によると、京都から丹波街道へかけて數萬の明
智勢充満し、蟻の通りぬける隙間もないとのこと。手兵七百の田邊城主は奈何ともす
る策がない。いらいらした日を送り迎へた。
 十日餘り經て、山崎合戰の結果を知ることが出來た。藤孝、今こそと從者數人だけ
連れて京都に馳せ着き、とりあへず本能寺の廢墟を弔へば、竹矢來をめぐらして、羽
柴勢の雑兵どもが警備してゐた。
 今川の流れの末も絶えはてて千もとの櫻ちりすぎにけり
 これは今年卯月の頃、駿府で信長の詠じたといふ述懐である。藤孝は今この和歌を
思ひ出し、幾何の月日も經ずして義元よりも悲惨な最期を遂げた信長の運命に泣い
た。さうして、それは信長のみならず、戰國武人の何人の上にも漂ふ黒い雲の陰蘙だ
つた。寂しい心持になつて、即日田邊へと引返した。
 藤孝は久しぶりで一如院の長老と對座してゐる。
「弓道の御用かな。」
「頭を剃つて戴きます。」
「善哉、善哉。」
 長老はひどく真面目な顔になつて引受けたが、
「風流ならざる所また風流。」
 とつぶやきながら、剃刀をあてた。此の日以後、藤孝は幽齋と號し玄旨と穪す。時
に天正十年六月十七日。俊成の歌道に於ける理念「幽玄」に基づいた改名である。

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