津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

ガラシャ夫人御生害 ・5  (小笠原家のこと)

2013-05-05 19:33:34 | 史料

   私云、秀林院様御生害の事ハ其比諸家にて秀て御名誉ハ不申及、末代迄も御節義を奉感事自他の差別なく誠以無比類御忠節ニ而御座候、本朝列女
  伝・関ヶ原軍記大成等に出たる趣少違有といへとも、見合の為左に出し置申候、且又小笠原・河北・金津等か殉死も武士の常にて強て賞すへき事にはあ
  らすと存る輩も候ハんなれとも、皆人節義を守り候ハ有前の事なから、右体の場に居合せ大切の御用に立、御供仕り候は武家に生まれたる規模冥加に
  相かなひ候仕合ニ御座候、されハこそ其余耀子孫に報ひ、今以類葉各君恩を蒙り候、此三家ハわけてしたはしく候間、当時迄相続の次第あらめ記之、并
  御遺言を承り、難黙止御屋敷を出候おく・しも両女も忠義の一と相見申候間、其素性子孫の様も記し、殊に霜覚書ハ証拠にも相成申候、又稲冨か節に臨  
  て逃亡、其様の見苦きも旧記のまゝ出し置申候、もしハ勧善懲悪ともいふへき歟、河北六右衛門・山内新左衛門等か子孫ハいまた考得不申候

小笠原備前守清秀少齋ハ、新羅三郎義光四代の孫加々美信濃守遠光より十三代、小笠原備前守稙清 一ニ稙盛 の嫡子也、初ハ又六、中比民部少輔と申候、数代室町将軍家に勤仕、秀清も義輝公ニ仕へ罷在候処、子細有て牢浪いたし京都深草に住し加々美少左衛門と改申候、前々より藤孝君よく御存知被成候故、御伽旁丹後に被召寄、当分之為御合力御知行五百石 一ニ六百石 拝領、藤孝君御剃髪之砌、御意によつて法体いたし少齋と改申候 諸書、松齋・昌齋・正齋抔書皆誤なり 当時御前様江御附人と申にてハ無之候得とも、大坂御屋敷御人少ニ候故、御頼被成候間罷越可申旨、幽齋君の御意にて御館の御留守居相勤候、嫡子加々美又六長貞 後長基 十六歳岐阜関原御供仕働申候、於豊前親遺領の上御加増被下都合千石拝領、無程小笠原民部と改又備前と改申候、猶又追々御加増被下五千石ニ而御家老職御備組をも預被置候、其後御政事の務ハ御免被成候、扨光利君御形儀万事申上候ため御附被成、老年迄相勤候ニ付御満足被思召旨にて、光利君より御懇詞を以無役の御知行千石拝領、都合六千石ニ被仰付候、万治三年正月八十歳にて致病死候、妻ハ吉田二位殿息女にて、忠興君の御姪子名ハおたまと申候、少齋か妻は京都北野松梅院女ニて少齋殉死後松寿院と申候、忠興君御懇之御意を以格別ニ御知行百石被下置、豊前にて致病死候、右百石を直ニ長基か妻ニ被下、慶安五年四月病死にて上知ニ成候也、長元嫡子民部長之部屋住料八百五十石被下、父備前組の御番頭被仰付、万治三年親跡無相違拝領、組外ニ被仰付候、然処有馬陳之手疵平癒不致何の御奉公も不仕故、無役千石分も願候て軍役相勤候、寛文九年隠居剃髪して玄齋と申候、妻は細川休齋主の御息女にて三齋君の御養女ニ被成被下こまん殿と申候、寛永十五年病死子とも出生無之、後妻ハ足利道鑑の娘也、長之嫡子備前 初名又十郎、中比民部 長英延宝四年正月御備頭、宝永六年願ニよりて御免、同八年隠居いたし休山と申候、妻ハ有吉四郎右衛門娘也、長英嫡子備前 幼名七郎 長知、正徳五年八月御備頭、享保十年二月御家老被仰付、寛延三年九月依願隠居、名を素水と改 妻ハ長岡内膳忠重主之息女也 、嫡子備前 初名大部 長軌 初長一、長得 、宝暦五年二月御備頭被仰付、安永三年八月依願隠居、名を仙郷と改申候、天明五年乙巳十一月五日病死、妻ハ宣記君之御息女、御つよ殿安永六年八月廿日卒去、法名高月院涼室慧光、長軌嫡子美濃 初名豊松左織備前追々改名長栄大御目付・御中老・御家老、享和元年八月十二日病死、養子織部 実ハ弟前名唯之助 長和、享和元年十一月廿一日家督、即日大御目附被仰付、享和三年二月十九日御中老被仰候
備前弟小笠原長良五百石拝領、妻は藤孝君の御息女 おせん殿、初め長岡与九郎孝以ニ嫁 此腹に女子壱人出生、田中又助妻也、長良ハ男子無之、跡断絶候
長基二男庄左衛門 初求馬、中比隼人 長昌、於豊前忠利君御小姓被召出、寛永十年三百石拝領 、同十七年三百石御加増、寛文五年四百石御加増、天和三年隠居いたし其後又兵衛と改、其子庄左衛門長澄、元禄二年五百石御加増都合千五百石、享保二年隠居、名を加々美素心と改候、其子庄左衛門長規 初名弥一右衛門、延享五年三月病死、其子弥一右衛門長豊、宝暦七年十一月病死、其子当庄左衛門 初名平馬実ハ加々美又兵衛長意二男 長美なり
古庄左衛門長昌ニ男子三人有、嫡子庄左衛門長澄、二男は他家を継いで岡田源右衛門と云、三男加々美権右衛門 一ニ初ハ八左衛門 長定、貞享二年九月御中小姓被召出、元禄十三年二月新知弐百石拝領、其子又兵衛長意、其子為之允長登(イ通)、其子今の八左衛門長暢、長基か三男小笠原采女長嘉 一ニ小笠原又右衛門信正とあり、別録三百石被下、寛文五年十月病死、男子なく跡断絶
当時小笠原の親類三家、美濃少左衛門・八左衛門いつれも少齋か子孫也、彼家記ニ家の本紋松波菱ニ而候処、小笠原信濃守貞宗 後醍醐天皇の御師範相勤候内王ノ字を下し賜、家の紋に可定之旨因 勅命則王の字を三階菱ニ仕、小笠原家何れも定紋ニ用候由、小笠原と申候ハ加々美次郎長清甲州小笠原卿ニ居住候処 高倉院勅命ニよりて家号といたし候由、長清の父加々美次郎信濃守遠光也

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小笠原備前家略系図 (作成・責 津々堂)     只今制作中・未完


小笠原少齋---+----長光---+---長之---+---長英
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          |        |       +---長知---長衝---長栄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→小笠原七郎家(嫡家)
          |                |
          |        +---長昌---+---長澄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→小笠原夫五郎家
          |        |        |
          |        |        | 加々美
          |        |        +---長定---長意(又兵衛・紅星)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→加々美健次郎家
          |        |                    錦嚢移文・雑花錦語集などの多くの記録を残した
          |        |
          |        +---長義
          |             勘助(陽明学徒の故を以て追放さる)
          +---長定
          |    玄也(切支丹の故を以て一族誅罰さる)絶家
          |
          +---長良 男子なく絶家
               室・細川幽齋女・千 

 

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