津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川小倉藩・御用覚書之帳--元和九年五月(7)

2010-06-23 21:48:19 | 歴史
     ■五月十二日 当番浅山清右衛門尉

  (鏡)善右衛門尉ニ申渡候也
一、御馬三疋、苻中かけ(鹿毛)・河原毛・ちゃかけ(茶鹿毛)上せ申舟(ママ)事 1

  三吉十右衛門より帷子一つ出候由也
一、越前之宰相様ノ御状積、さい木(海部郡佐伯)へ御船頭橋本勘左衛門参候事、此地へ着申候事 2
   (松平忠直)
                                                松井興長 小笠原長元
一、中津小御上様御煩之由候て、仁喜斎呼ニ参候間、乗物かき七人可申付由、式ア殿・民ア殿より被
   仰候間、御荒仕子七人、十一日ノ夜半時分ニ申付、遣事 3

  山路太左衛門方へ申、上せ候事
一、御馬三疋上せ候御奉行ニ、御鑓衆可然由、式ア殿・民ア殿へ切紙ニ而相尋候処ニ、大阪より京迄、
   歩ノ御小性壱人被相渡候へと、太左衛門所へ可申遣由、御返事候事 4

  十三日ニ樽拾五、御馬舟ニ積、上せ候、御買物奉行ニ申渡ス
一、生酒樽上せ可申事

  拾を上せ申候、御薪舟ニ上せ候事
一、味噌樽上せ申事

  善右衛門ニ申付候事
一、御薪舟上せ申事

  御買物奉行ニ申付候事
一、生酒樽三拾五、薪舟積上せ候事

一、御さいゑん(菜園)場ニ、絃懸升入申由候事

  大村久兵衛方へ切手遣候事
一、上方へ上せ候ならすけなすびのかうの物入桶之事

2、越前宰相とは家康の子松平秀康の長子忠直のことである。ご乱行がたたり元和九年豊後萩原に配流(五千石)されたが、この日に
  萩原に着いたと史料は記している。慶安三年九月歿。年五六。ちょうど時期が重なる書状の到来であるが、本人のものであろうか?。
  どのような内容であったのか知りえないでいる。
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3 コメント

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忠直卿の書状 (ツツミ)
2010-06-24 21:00:21
津々堂様
忠直卿の豊後府内萩原(我が実家の近く)到着は、柳営譜略、台徳院殿御實紀、共に五月二日の事と記録されています。その十日後ですから、本人よりの書状の可能性大です。もし件の書状や写しが残っていれば、是非とも内容を知りたいものです。
忠直卿は、配流の途中、敦賀永昌寺で先代秀康の法要を営み、その為に北ノ庄から呼んだ孝顕寺三陽和尚へ、礼状二通(『福井市史』に孝顕寺文書として所収)を、やはり配流途中に送っています。二通目は、萩原到着当日の日付のもので、興味深い内容です。これを部分的に転載している『忠直乱行』は、絶版(版元消滅)となり、このままではその文面を知る人も居なくなりそうですので、以下に再転載いたします。

「あまりに/\御名残惜しきまゝ一筆申上候」・・・(中略)・・・「さて/\我等儀なにの浮世に残し置候儀も御座なく候。ただ/\地獄遠からず、それ現在の果を見て未来を知る一心までにて(この部分が切支丹教義書「こんてむす=むんじ」の内容に似るとの指摘有)御座候。さて/\狂言綺語にて御笑いの種と存じ申し上げ候」・・・(中略)・・・「お恥ずかしきながら
八重桜冬木になるも山桜 華は咲かねばしる人もなし
嵐吹くすゑはみこともしらくもの 嶺の紅葉ば散りはてにけり
さて/\我等かなわぬむね恥ずかしながら申上げ候。さて/\我等道にて如何様にあい果て候とも、此文御片身に御覧じ頼み入り候」(中略部分には、『忠直乱行』の著者による該当部分の概略の説明有)

以上が、その数ヶ月前まで乱心と見做され、「日本史上最悪の暴君(海音寺評)」と言われている人物の書状です。
忠直卿配所は、やがて内陸部の津守(つもり)へ移りますが、菊池寛は、『忠直卿行状記』のエピローグ部分で、ここを「つのかみ」と読ませています。私は、これを行状記があくまでもフィクションである事を示唆する為ではなかったか、と思っているのですが、勘繰り過ぎでしょうか?柳営譜略も、日付は正しいものの、津守配流後、萩原へ移り、同地にて卒、と間違いを記していますし。
ツツミ
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到着日と書状の行方 (ツツミ)
2010-06-30 19:40:45
津々堂様
松平秀康・忠直の「制外の家」vs徳川将軍家に関しては、いずれは本格的に調べたいと考えているテーマですが、面白い関連史料を紹介頂いたので、この機会に疑問点を少しでも解消しておきたいと思います。
疑問其の一、福井県は、随分太っ腹で、『福井県史』をネット上で公開しています。そこで、忠直卿に関する記述を調べた所、先日お伝えした五月二日付書状は、「敦賀出立時」のものとされています。そうであれば、十二日萩原到着という『福岡県史』の記述との整合性も出て来そうです。『忠直乱行』の著者中嶋氏も、書状の末尾部分から「旅はなお終わっていないようである」という印象を記しており、この日程の方が正しいようにも思われます。御實紀、柳営譜略は、紅葉山の同じ情報源を基にしている可能性の高い書物ですので、二日到着が、誤伝である事も有り得ます。『福岡県史』で十二日到着としている根拠史料がお判りになれば、ご教示願います。(福井の公文書館にも二日出立の根拠史料を問い合わせてみます。)
疑問其の二、「御用覚書之帳」の文面解釈について。豊後佐伯は、小倉から見れば、府内を通り越し、むしろ日向に近い位に(町村合併で、知らぬ間に本当に宮崎と隣接してました)南に離れた地です。忠直卿の書状が、何故佐伯から小倉へ?というのが、大分県人の率直な疑問です。『越前之宰相様ノ御状積、さい木へ御船頭橋本勘左衛門参候事、此地へ着申候事』という文面の前半部分のみを、他の日の覚書中の、似たような項目のパターンに合わせて見ると、忠直卿の書状を舟に積んで、佐伯の誰ぞやの元へ御船頭が向った、という様に読めます。問題をややこしくしているのは、最後の一文です。普通なら「此地」は、小倉でしょうが、彼地・佐伯のこととして考えると意味が通じるのではないでしょうか。本日UPの『備後ノともより、かないかり大小七ケ、御船頭加来久二郎つミくたり候、』が、小倉に届いた際の表現パターンだと思います。小倉もしくは広義の「此地」九州の配所に、忠直卿が着いた、という意味かとも考えましたが、職掌に関する事のみが記録されているようですので、書状が届くべき所に届いた、と見るべきなのでしょう。小倉を通過した際託された書状が、たまたま同日佐伯に送られた、という事でしょうか。忠直卿一行の敦賀から萩原までの旅程はまだ調べていませんし、瀬戸内海を船で豊後入りした可能性も否定できませんが、一行が細川領を通過した記録は無いか、覚書の解釈と合わせご教示頂ければ有り難いです。
ツツミ
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Unknown (ツツミ)
2019-07-28 21:52:46
津々堂様
9年前のコメント、今読むと、かなりピント外れだったようです。

先日もお伝えした通り、この後に刊行された『大日本史料(十二編の六十)』に採録された岡藩士の報告より、忠直卿は、海路豊後に入り、五月二十六日に萩原に上陸した事が判明しています。
また、同書には、「越前之宰相様ノ御状積、さい木へ」云々の報告も採録されているのですが、「さい木」について、当時細川領だった豊前宇佐郡の「西木(サイギ)」とする注釈が付されています。この解釈であれば、疑問は解消されます。

コメントで紹介した忠直書状にある、「現在の果を見て未来を知る一心までにて」が、『こんてむっすむんじ』の文言に似ているとする、忠直切支丹説からの主張は、どうやら誤りだったようです。『難波戦記』を読んでいて、奇しくも越前軍が活躍する場面に、「現在の果を見て過去未來を知るとは佛の善言なり。」とあるのを見付けました。書状の忠直の言葉が、仏教的な考え方から来ていた事は間違いありません。

忠直切支丹説は、『忠直卿行状記』発表翌年の大正八年(1919年)、教会史家の山本秀煌が著した『西教史談』で、元和六年に忠直がベント・フェルナンデスより受洗した、と紹介されたのが、最初ではないかと思います。この説は、1920年代から30年代頃には、けっこう流布していたようです。(忠直切支丹説について述べると長くなりますので、またの機会にいたしますが、もしかすると、『忠直に迫る』で、触れられているかも知れません)。

『忠直卿行状記』は、菊池寛が先に発表していた、会津藩主加藤明成を主人公とする『暴君の心理』を、内容はほぼそのまま、人物を入れ替えて書き直したもので、史実とは離れた全くのフィクションです。菊池寛自身、「中の事件はまるで考へ出した事で、史実には少しも依つて居ない。」と述べています。
史実から見れば、大坂夏の陣で、用兵の失敗を家康に叱責されるまで、忠直卿に挫折の経験が無いなどという事はなく、冬の陣でも真田丸を攻めて失敗し、なによりも、慶長十七年に越前騒動という、改易されてもおかしくなかったような大失態を演じ、藩の運営は、家老の本多富正に委ねられています。夏の陣で殊勲を挙げるまでは、劣等感すら抱いていた事でしょう。物語中には、正室勝姫や、嫡子仙千代、二人の姫の影も有りませんが、こうした要素を全て書き込んで、史実に沿った小説にしていたら、あの名作は生まれなかったのかも知れません。
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