「赤穂義士資料館」の佐藤さんからBBSに書き込みを戴いた。
堀部弥兵衛の介錯を務めた米良市右衛門について、ご子孫の縁類の方がWEB
上にエッセイを書かれているとのこと。さっそく覗いてみると、大叔父「米良爺」に
ついての事が、機知あふれる文章で紹介されていた。
それによると直系のご子孫が、何らかの史料をお持ちらしい。
札幌周辺にお住まいらしいが、珍しいお名前だけに何とか見つけ出せないかと
捜索活動を開始した。なにかうまい手立てが無いか、思案投げ首中・・・・
エッセイを書かれた方のサイトも所在がわからないし・・・・さてさて
堀部弥兵衛の介錯を務めた米良市右衛門について、ご子孫の縁類の方がWEB
上にエッセイを書かれているとのこと。さっそく覗いてみると、大叔父「米良爺」に
ついての事が、機知あふれる文章で紹介されていた。
それによると直系のご子孫が、何らかの史料をお持ちらしい。
札幌周辺にお住まいらしいが、珍しいお名前だけに何とか見つけ出せないかと
捜索活動を開始した。なにかうまい手立てが無いか、思案投げ首中・・・・
エッセイを書かれた方のサイトも所在がわからないし・・・・さてさて
のちほどメールにてこのデータを送りますので、ご参考になさって下さい。2001年発売のヴァージョンですので、データもその頃のものだと思います。
あっ、そういえば花岡先生の著作集が出るそうですね。楽しみです。詳しい情報がわかりましたら是非ご一報の程を。
実はふと思ったのですが、当初は「まいら」と呼んでいたものが細川家先祖附が提出されたいつ頃かに「めら」と読みを改めたのかも知れません。
そうした例は多く、例えば忠臣蔵に出てくる人物で浅野内匠頭切腹に際して同情を寄せたという多門伝八郎です。多門は「おかど」と読みますが、御子孫筋では「たもん」と名乗っているとも聞いています。
今日、会社経由で「赤穂義士資料館」の佐藤さんからメールを頂き、いろいろ検索しているうちにこのブログに行き当たりました。赤穂浪士について深く研究をされている方が大勢いるのに驚きました。
米良爺は、今も健在(82歳)で、札幌におります。私の知る限りのことはエッセイに書いた通りです。
神棚から出て来た巻物(文書)は米良爺が家宝として未だに所持しております。先ほど米良爺と同居している長男に電話して確認したら、確かに(巻物が)あるとのこと。私もその文書を直接見たことはないのですが、現在私の手元にある北海道新聞の昭和53(1978)年12月14日(日高版?)によると、長さ3メートル、幅15センチとあります。米良家10代の当主左七郎が明治2(1869)年9月に書いたものだそうです。
長男に佐藤さんから連絡があったという話をすると「難しいこと訊かれても、もう、なんにもわからねぇんだよな。この間、熊本の真藤さんっていう人から、弟(札幌)の所に手紙来てたみたいだけど、忙しくて返事出してないんだ」というなんとも頼りない話。
私としては、埋もれた?歴史に何とか光を当てたいと思う次第です。たいした資料ではかいかも知れませんが。
何とか文章をコピーしてもらって、佐藤さんに送りたいと思っています。
随分、くどくて長いコメントになってしまいました。ゴメンなさい。
お問い合わせがあれば、北日本石油㈱のHP経由でご連絡下さい。「赤穂浪士に関することで小山次男と連絡がとりたい」で結構です。
コメントを頂戴し有難う御座います。
沢山の皆様のご厚意により、ようやく米良様の情報を得られそうです。詳しくは赤穂義士資料館の佐藤様にお任せすることに致しました。今後ともよろしくお願い致します。