津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■宮津・田邊時代の20年(1/2)

2018-09-29 13:26:51 | 歴史

 先に記した如く、細川氏が青龍寺に入ったのは元亀二年(1571)のことである。この地で約9年間を過ごし、天正八年(1580)藤孝・忠興父子は信長から丹後一国(123,500石)を拝領し宮津・八幡山城に入った。父・藤孝は宮津の浜の手に居城を定めるべく信長に築城の許可を求めた。
平城であり、現在の宮津城とは若干の位置の違いもあると聞くし、規模も異なるもであったろうが、天橋立に近いこの地は藤孝にとっては有難い土地柄であったろう。
慶長五年(1600)に忠興が大身の大名として豊前に領地替になるまで、大きな時代のうねりの中に身を置きながら、約20年間の長い年月を過ごしている。
以下略年表で20年間を追ってみる。

  ■天正八年(1580)三月、藤孝、従四位下侍従に叙さる
   ・同年、宮津に城を普請し居城としたい旨の申し入れに関し信長の返書
        折紙披見候。仍つて其面の儀、異議無きの由尤も以つて珍重に候。
        然らば居城の事、宮津と申す地に相拵ふべきの旨得心候。定て然
        るべき所に候哉。其に就きて普請の儀、急ぎ度きの由に候。則是
        任(光秀)かたへも朱印之を遣はし候間、相談ぜしめ、丈夫に申
        付くべき儀肝要に候。(以下略)
           八月廿一日             信長(黒印)
            長岡兵部大輔殿

   ・同年 中院通勝、正親町天皇の勅勘を蒙り丹後国舞鶴に配流

  ■天正九年(1581)、三月忠興・興元兄弟信長の旗本衆として甲州攻めに従う。
         信長の旗印改めに際し忠興「黒字に引両を筋違に仕したし」と申し出て「物数寄者とご褒美」さる

            忠興公と旗印   

                         又年月は不明だが九曜の紋の始まりに付いては次の記録が残る。
        「忠興公御譜中」に「或時忠興公信長公之腰物を持ツ小刀の柄に九曜之紋有を見て愛シ衣服之紋とし
         信長公御感ニ而自分家紋にすべき由被仰候よう忠興公九曜を用候なり」

   ・同年五月藤孝長女・伊也、一色左兵衛督義有(五郎)に嫁ぐ
   ・同年十二月十三日落成か 田辺一如院住職・永雄(藤孝・甥)落成の式の詩
       「臘月十三賀徙藤孝宮津新城」           (中嶋利雄講演集・細川時代の宮津)
   ・同年中  長岡玄蕃(興元)、松井康之を家老とす。夫々13,000石
         玄蕃を左備とし番頭は米田助右衛門、康之を右備とし番頭は有吉将監(3,500石)とす。
         玄蕃を嶺山の城代、松井康之を久美の城代、有吉を安良の城代とす。

  ■天正十年(1582)五月廿九日光秀謀叛、六月朔日信長自刃、六月二日信二条邸にて死去す
        六月三日、早田道鬼斎により、信長父子死去の報宮津に届く。父子共に剃髪す。
                                    藤孝隠居して幽齋と号し、忠興家督す。詳細日時不明
        六月九日付、御味方を乞う光秀書状届く、父子同心せず


                 「明智光秀書状」の画像検索結果

        六月十三日、山崎合戦に於いて明智光秀敗北、殺害さる
         時期不明:忠興、室明智玉(後・ガラシャ)を味土野に隠棲さす
        七月十一日付秀吉書状、細川父子の義心に対し起請文を送る

        九月八日、忠興一色五郎義有を宮津に招き饗応、謀殺す
               室・伊也(幽齋長女)、宮津に帰る

   ■天正十一年(1583)正月八日、安土に赴き三法師並びに秀吉に面会す
        三月幽齋長女・伊也、吉田神道宗家吉田兼治に再嫁す

        期日不明:忠興二男・興秋誕生す

   ※田辺城の築城 「天正十一年越中守守御縄張、同十三年酉年普請大略出来之由申伝」(田辺御成図)

   ■天正十二年四月、小牧の戦いに出陣

   ■天正十三年(1585)三月、秀吉の根来攻めに従う
        七月、忠興従四位下侍従に叙せられ、羽柴姓を賜う
        八月、秀吉の越中攻めに従う
        十月六日、幽齋(52歳)法印に叙せらる
        この年、幽齋四男茶知丸誕生(孝之・休也宗也)

   ■天正十四年(1586)四月十一日付、秀吉、幽齋に対し、在洛料としてかっての知行地勝龍寺村などに
                       3,000石を知行す。(勝龍寺村・神足・上々野・石見など)

     同年四月、忠興三男・光千代(内記 忠利)誕生す

   ■天正十五年(1587)三月~七月、秀吉九州征伐、幽齋随行す。忠興、豊後方面に出陣す。

   ■天正十七年(1589)六月九日、島津義弘相國寺光源院(十三代将軍足利義輝)において幽齋を饗応す 
        九月、秀吉より丹後領地を定められる

   ■天正十八年(1590)二月廿ニ日、北条攻めに従う

   ■天正十九年(1591)二月十三日、堺に蟄居を命じられた利休を淀川べりにて見送る  
                 十四日、上記のことを記す松井佐渡(康之)宛書状
                  千利休絶筆.jpg 財団法人松井文庫所蔵

               廿八日、利休切腹


                   (以降随時書き込み、文禄・慶長期につづく)

          

 

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