津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

「梅の薫」耇姫様の事 (一)

2013-07-04 06:32:46 | 史料

                                              

       「梅の薫」

 梅珠院殿窓妙薫大童女、御名は耇(こう)姫君と称し奉る。大殿(齊茲)の第十一の御子にて渡らせ給ひ、文政六の年(1823)末の二月の中の四日(14日)に本山の御屋形にて御誕生あり。御腹は今井氏の女倉子(久羅とも)なり。後祝盤井と改。身ごもらせ給ふ前の年、霊夢の瑞ありてより生まれ出でさせ給ひ、いまだ御幼く渡らせ給ふに御孝心深く御友愛厚く、下を恵ミあわれみ給ふ事の切なるを初メとして、御一代の御行状感称し奉るを数しらず。
四ツといふ御縁、世を早ふさせ給ひしがども、その御あとまでも、此君によりて善心を興起せし人あまたあり、誠に凡愚の及びがたき虜にして、只人にてハましまさゞりしと皆人仰ぎ奉りぬ、かく斗りの事をそのまゝに過キなんは本意なき事にやと恐れミながらも御一代のあらましを書キとゞめ奉りぬ。

 君の誕生より二とせまえ巳の霜月十九日、大殿御氏神なる宇土三宮に詣デさせ給ひけるに、倉子も御供に侍りしが、御旅館ニての夢に、いと尊き白髪の老翁の眼の中、たゞ人にましまさぬが来り給ふと見奉りて、けしからぬ夢を見し事よと、そのさまを委しくもの語りしけるを、大殿聴カせ給ひて、そハ不思議なる事かな、その御かおはせハまさしく此許に住ミ給ひし父君(細川興文公)によふ似させ給ひぬ、このもとに渡り給ひしにうつゝに見へさせ給ふにやあらんと仰セありき。
 次の年、弥生の比にや、占をよくせし人より、この初秋は大殿の卦兆ことによからぬよしを云ヒ出ぬ。いかなる事にやと人々心を痛めける中に、倉子はわけて心を用ひ神仏の祈りはさら也。朝夕きこし召サるゝものをもえらミ調シ奉り、夜も安くいねず心を尽くしけるに、五月の頃より逆上強く、月のものさへ不順なれば、さまざま薬を用れども快かたず。六・七月の比よりは腹内簾を置キたるがごとくに筋ばりしかバ、針療をも加へしかどもさせるしるしもなし。
 七月末の十日ハ御うらかた(占形)わけてよからぬよしにて、其ノ身の病をもいとわず夜に日に何くれと心をつくせしに、事故なく七月も過ギ給ひ、八月七日といふに御祝も事済ミしかば、初てこゝろ落着イて腹内も和らぎぬ。其の比余の医師はうけがはざりしかども、松岡某のミ目出度キ御事のよし云イ出ぬ。ほどへて身ごもらせ給ふに事究りしかば、大殿はいふもさらなり人々の喜び大かたならず。始メのほどハやまいとのミ思ひてすごせし事を、大殿深く案じさせ給ひ、様々御祈リの事などあり、其年も事なく暮て、明れば文政六ツの年二月中の四日に本山の御屋形ニて、君誕生あり、倉子ハはじめての産なりしにいと速カに安らけく生れ出させ給ひしかば、兼て御祈りのしるしにて、偏ニ此君の御洪福にぞと申シあえり。此時御産屋の上に鶴舞遊びしかば、目出度キ御行末と寿ぎ奉り、末頼もしうぞ思ひ奉りぬ。大凡、子の生れ出しはじめハ、眼のうち薄紙をおほいしごとくなるに、此君の御かほはせうるハしく、御眼のうち、いとすゞやかに渡らせ給ひ、威高きましまして、何とのふつゝしみおそれ奉るよふにあらせ給ふ。
扨、傳の人もり奉りて倉子ニ拝しさせけるに、つくづくと見奉りて、ふと思ひ出れば、過ギし年宇土の御旅館にて夢に見奉りし尊翁の御かほはせに露たがいたまはざりしかバ、扨は霊夢ニて有けるよと、むねとゞろきぬれと、ひとり心にこめてやミぬ。
 兼て兄君(十一代藩主・齊樹)ゟ、養ひ(養女)にし給はんと、こひ望ミ給ひしかば、大殿もその御心に任せ給ふ。七夜の御祝も済せられ、肥立せ給ふにしたがひて、いと愛々しうならせ給ふ。大殿にハ、年久しう御子とてもましまさざりしに、はからずも此君生れさせ給ひしかば、たゞ掌(たなごころ)のうちの玉とばかり、めでいくつしミ給ふ。早くも知恵つかせたまへかしと、皆人待チわび奉りぬるに御目明過る比より少しづゝ笑せ給ひ、御百日の比は彼是と御目につき、御手遊びの品捧げぬれハ、御悦ビ之様ニて御笑あり、守札など文字を書キぬるものハ、殊更御目に留りて御心に叶ひぬるさまなど、ことに愛らしくならせ給ふ。折節ハ、地を踏せ給ふが薬なるよし医師より云ヒ出しかば、日陰なる地などあゆませ奉る。御庭のうちに水をひき田を作らしめ給ひし所ありしに、其ノあぜ道を御うしろより手を添エ奉り、かなたこなたと歩せ奉れバ、そよそよと稲葉に風の渡るを御覧じつけて、よろこび興じ給ふことなどありぬ。なめてのおさな子ハ少しの事にてもなきさけぶものなるに、此君ハ御生れいとゆふにましまして、ひとり寝せをき奉れバ、いつ迄も御こころよく寝させ給ひて、持チ遊びやうのもの、又は柱に張りたる札守など御覧じたわむれさせたまひ、少しもうミ(倦み)給ふ御気しきなし、かく渡らせ給ひしかば、もり奉る人々も心をいたむることなく、三伏の暑き日も余念なく笑ひ遊せたまふ御有様にまぎれて、暑さをも忘れ日を送りぬ。
 この本山の御屋形は、もと広野の中に作り建テたりしかば、日をよくべき木陰なくして、夏はことに暑さつよく、冬は野風にへわたりけれバ、年老イ給ふ大殿はさらなり、いまだおさなき此君の住せ給ふにもあしかりなんと人々申シあえりしかば、ことし七月初の三日より、かりに花畑の御屋形に入せ給ひ、扨、御屋形かえ給ふべき地をゑらまれて、二ノ丸のうちに新に殿つくりし給ふ、さるからに此ノ冬は花畑の御屋形にて年を送らせ給ふ。
    

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