津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

木村長門守重成の弟・重之(篠原清兵衛)の嶋原の乱

2009-04-03 16:34:59 | 歴史
 海東村(宇城市--旧・小川町)に、木村長門守重成の弟の碑が残されている。これによると、元和元年の大阪城落城後数年間潜匿、海東に来たとされる。寛永十四年「有故改氏篠原」清兵衛と名乗り、翌十五年には有馬之役(嶋原の乱)に加わっている。
「玅解公使金守外記藤懸蔵人監 楼之鳩工聚材城兵屢毀之 踰月不就遂命翁不日落城 蓋意匠出干衆云 公賞其功又奮戦得首一一級名聲籍々 公大賞之賜白金及章服」

 綿考輯録
■有吉手米田与七郎ニ属したる浪人篠原清兵衛 一ニ金掘と有廿八日ニ詳出 は敵壱人かゝり候を仕留、
  首を頼母佐に見せ捨申候、
■篠原清兵衛も乗込、手負なから首一ツ討取候、
■篠原清兵衛ハ七人突伏、八人目の敵に長刀にて面をつかれ、疵を被りなから其者も仕留め候、
  いまた鑓をも不引取、あたり二控たる水野家・松倉家の士に向ひ・細川越中守内篠原清兵衛唯
  今のつらのかわりを仕候と呼り申候、

    清兵衛ハ木村長門守か弟也、大坂落去之時幼年ニ有之、後に御国ニ来、篠原清兵衛
    と改浪人ニ而居申候、金山の事委く存候而誤用被仰付儀度々有之候、今度天草・有馬
    ニ而ハ米田か手ニ付罷越、城楼の奉行なと相勤、御目見をも被仰付、此節手負引候を
    伊豆殿・左門殿より御尋有之候ニ付、越中守内城楼の奉行と答、働の儀ハ御眼前ニ而
    候段申上候へハ、今日の御筆初ニ而候間、左様相心得候へと被仰候、惣首十一討取
    候と家記ニ有之

 部分御舊記
■有馬城乗之刻働之衆
 銀子堀
 篠原清兵衛
   一、二月廿七日有馬ニノ丸塀を越敵一人懸申候を鑓ニ而仕留候 証人合申候
   一、同日之働両度ノ内一度又ハ廿八日働ハ他国証人にて御座候ニ付別帳ニ仕差上申候

■二丸ニ而頚取候者
 かねほり
 篠原清兵衛
   二月廿七日ニの丸にて敵壱人懸り申候を仕留有吉頼母佐ニ見セ申候
   證人竹内八兵衛 證人口相違無御座候已上

■有馬城乗之刻働之衆他国衆牢人衆証拠に被立候帳
 かねほり
 篠原清兵衛
   一、二月廿七日本丸東之角より乗申右之かいなを鑓にてつかれ石にてもうたれ申候
     首ツ取申候
                    水野日向守様御内
              證人     関口佐太右衛門
   一、同廿八日卯ノ刻敵七人突ふせ八人めに長刀手を負申候則あいて仕留見せ申候事
                    水野日向守様御内
                      関口佐太右衛門
                    松倉長門守様御内
                      木村新左衛門
                      四宮蔵人
                      坂根宇太衛門
 御褒美
銀子五枚帷子単物被遣
     山師 篠原清兵衛 




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