津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小笠原長元のための袖判借銀

2023-04-12 06:38:44 | 人物

 袖判借状とは「借状の内容に藩主が同意して署名・押印して保証したもの」であり藩主の花押が付される。
随分以前「■袖判による借銀」を書いたが、ここでご紹介した吉村豊雄教授の記事によると、本来は藩の借り入れに対する藩主の保証であったようだ。それも毎年借り換えをする自転車操業状態であったらしい。
処が下にご紹介する内容によると、有力家臣の「手前不成」(勝手向きが立ち行かない)ことに対しての借銀に対して保証するという特殊性が見て取れる。
同様の事例があるのかどうか良くわからないが、忠利にとって15歳の時に死に別れた母・ガラシャに殉死した小笠原少斎の嫡男であり、その妻が幽齋の娘・伊也と二位吉田左兵衛兼治の娘・たまであるという事も影響しているかもしれない。

                      (寛永五年正四月十二日 奉行所日帳
            
   一、小笠原備前殿御手前不成ニ付而、寛永四年ニ 御袖判壱枚被仰請、上方にて銀弐拾貫目御借用候、
     左候て、当春被成御請返、御袖判被差上候、則飯田才兵衛を以、御前へ上申候処、御前判御やふり                                           
     なされ御出候、又備前殿右之 御袖判請返上可申との請状 御前ニ上被置候をも、同前ニ 御前ゟ
     出申候、明日上方へ便宜御座候ニ付、式ア殿ゟ備前殿へ御上せ可有由、■■被仰越候間、則式ア殿
     へ持せ遣候、    

 奉行所の日帳の記事だが、「小笠原長元が困窮したので藩主忠利の袖判をお願いして銀二十貫(≒2660万円)を借銀した。
その返済が終わったので借状を受け返し、御返し申し上げた処、破り捨てに為された。」という大意である。

この当時備前長元は5,000石の大身である。(奥方は別禄100石)大身であるがゆえに家来も多い。
「困窮」と云うのは単なる家政ではなく、家来を賄うためのものであったろう。
縁戚関係とは言え、「藩主の袖判」を得て借銀し、一年足らずして関西に至ったというのは知行米の大形を処分してのことだと思われるが、先ずはご同慶の至りである。 
                       

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