寛永二十年二月十三日忠利公の菩提寺が完成した。十八年三月十七日、56歳で亡くなった。天草島原の乱に大將格で出陣し多くの家士の死傷者を出したが、長い戦いの結末を迎えた。これらの苦労がかれの生命を縮めた。十三日から十七日まで取越し法要が行われた。この法要に殉死者阿部弥一右衛門の者遺児権兵衛が、自らの髻を切るという不祥事を起こし誅伐された。遺族である一族が屋敷に籠り抵抗の構を見せたため、藩は討手を派遣して一族郎党ともに討ち果した。これらの事は森鴎外の「阿部一族」に詳しいが、史実にてらすと大いなる錯誤がある。
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