津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

信念の人・木村豊持

2009-12-12 22:33:12 | 歴史
 新田藩二代藩主・細川利昌の弟・利武が、細川宗家綱利の養子(宣紀)となった時分、代々三家老がうち揃って利昌の家禄を三万五千石から五万石に増やそうと考えたらしい。同意を求められた家老・木村豊持が不同意、これが原因かどうかは判らないが、新田藩の加増はなされていない。木村豊持は綱利の隠居をすすめんが為、御詰間に三日間綱利の出座を待ち、詰間を覗いた綱利の袴にすがって諫言したという剛の人である。加増に成らなかった利昌の七男・豊章が、豊持の養嗣子として木村家に入った。豊持の伯母なる人が将軍家綱の乳母であり、公儀は豊持に一万石を与えて御直参となすべく、井伊掃部頭より内意があったがこれを辞退し、晩年は京都に住まいしている。信念の人である。

  細川」宗家
  光尚---+--綱利===宣紀(利武)---宗孝        
       |
       |                 +--利方---利寛
       | 新田藩・初代    2      |   3     ↓4
       +--利重---+--利昌 -----+--利恭===利寛
               |         |
               +--利武     +--豊章
                             ↓
  上林加賀守 ・・・・・→木村豊政---豊持===豊章
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3 コメント

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上林家 (iwarehiko)
2021-10-25 20:55:58
寛政譜の上林家の記載を検索していてコチラの記事に行き着きました。肥後藩の家老・三千石まで昇進していたのは驚きです。実家の禄高家柄からしたら凄い抜擢だと思うのですが、なにか事情があったのでしょうか?藤孝の頃に地縁、面識はありそうですが。
古い記事でしょうが、教えて下さい。
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宇治代官という由緒 (津々堂)
2021-10-29 08:48:54
木村家は豊政をもって初代としますが、宇治の代官・上林峯順の弟です。その召し出しは寛文五年のようで、350石でしたがのちには1,000石となります。細川藩5代・綱利の招聘によるものだと思われます。
木村豊持は養子で豊政の甥にあたり用人や家老職を勤めて追々加増されて3,000石となりました。
そして綱利の甥(新田藩主利昌の二男)を養子として豊章となりました。木村家が綱利に非常に重要視されていたことが判ります。その後も藩の重職の子女との婚姻関係を重ねて藩の重臣となっています。
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上林家2 (iwarehiko)
2021-10-31 02:46:21
お答えありがとうごさいます。
一つ疑問が残るのですが、豊持は豊政甥で上林氏ということですが、寛政譜の上林家には記載されていない人物ですよね。分家の味卜、春松、竹庵のどれかの出身なのでしょうか。それとも女系なのか。。
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