次回の史談会では、天草島原の乱における「証拠状」を取り上げようと思っている。
先に書いた澤氏は、戦場で尾藤金左衛門と出会い、功名を上げた時は証人になってほしいと頼み込んでいる。
金左衛門は、命永らえたら勿論そうするが、自分が戦死した時を考え家臣二人に名乗りするように指示している。
金左衛門は忠利の恩義に対し、決死の行動をとっている。そして名誉の戦死をとげている。その有様が澤家の文書にうかがえる。
澤氏に対する証言は名乗りあった金左衛門の家臣によって行われている。
史談会を前に金左衛門についておさらいをしている処である。
金左衛門の父親は元讃岐18万石領主の尾藤左衛門尉知宣、秀吉の勘気により領国没収、天正18年(1590)切腹を仰せ付けられた。
金左衛門はその二男である。福嶋正則改易(元和5年・1619)後森美作(忠政、寛永11年没)に仕えたが、寛永12年(1635)忠利に召し出された。
その時金左衛門は船で瀬戸内を経ているが、嫡子甚之允は妻と共に別の船に乗り難破して溺死している。
親子ともどものうれしい細川家仕官は嫡子夫婦の死という思いがけない悲運から始まっている。
寛永15年(1638)金左衛門は天草島原の乱に於いて亡くなった。細川家の奉公わずか三年であった。左着座3,000石
先祖附は次の様に記す
妙解院様御代寛永十二年被召出御知行三千石
被為拝領御左之着座被仰付此節江戸ゟ御國江
引越申候刻嫡子尾藤甚之允妻子共乗被
船父金左衛門妻子共乗申候船ニおくれ難風致
破損溺死仕候此節家ニ傳候系圖書出之類
海ニ沈申候ニ付先祖委敷儀傳不申候右
甚之允相果候儀
妙解院様達 尊聴父金左衛門江御吊之被成下
御書候于今所持仕候右甚之允存命仕候得は
外ニ五百石被為拝領御約束と申傳候