津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■縄張り争い

2019-08-01 19:36:09 | 徒然

 今日は朝から病院通い、薬をもらうためだが有難いことに目まいの薬がお役御免となり、血圧関係二種と血糖関係一種とすっきりした。
処方を受けた後、散歩がてら近くのホームセンターに足を延ばし買い物、また横に或るペットショップでメダカや水生植物を購入する。
数時間水温をあわせる時間を取り新たな住処に放流すると、人口密度が三倍になり、元の住人とはげしい縄張り争いが始まった。
余りに激しいバトルなので、静まらせようと思い蓋をして遮光を試みる。明日の朝には少しは静かになっていることだろう。

 今日の熊本は36.3度に達したが、明日は37度の予想である。水中のメダカさんは羨ましい限りである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■尾藤金左衛門討ち死にす

2019-08-01 15:58:45 | 歴史

 次回の史談会では、天草島原の乱における「証拠状」を取り上げようと思っている。
先に書いた澤氏は、戦場で尾藤金左衛門と出会い、功名を上げた時は証人になってほしいと頼み込んでいる。
金左衛門は、命永らえたら勿論そうするが、自分が戦死した時を考え家臣二人に名乗りするように指示している。
金左衛門は忠利の恩義に対し、決死の行動をとっている。そして名誉の戦死をとげている。その有様が澤家の文書にうかがえる。
澤氏に対する証言は名乗りあった金左衛門の家臣によって行われている。
史談会を前に金左衛門についておさらいをしている処である。 

 金左衛門の父親は元讃岐18万石領主の尾藤左衛門尉知宣、秀吉の勘気により領国没収、天正18年(1590)切腹を仰せ付けられた。
金左衛門はその二男である。福嶋正則改易(元和5年・1619)後森美作(忠政、寛永11年没)に仕えたが、寛永12年(1635)忠利に召し出された。
その時金左衛門は船で瀬戸内を経ているが、嫡子甚之允は妻と共に別の船に乗り難破して溺死している。
親子ともどものうれしい細川家仕官は嫡子夫婦の死という思いがけない悲運から始まっている。
寛永15年(1638)金左衛門は天草島原の乱に於いて亡くなった。細川家の奉公わずか三年であった。左着座3,000石
先祖附は次の様に記す

           妙解院様御代寛永十二年被召出御知行三千石
           被為拝領御左之着座被仰付此節江戸ゟ御國江
           引越申候刻嫡子尾藤甚之允妻子共乗被
           船父金左衛門妻子共乗申候船ニおくれ難風致
           破損溺死仕候此節家ニ傳候系圖書出之類
           海ニ沈申候ニ付先祖委敷儀傳不申候右
           甚之允相果候儀
           妙解院様達 尊聴父金左衛門江御吊之被成下
           御書候于今所持仕候右甚之允存命仕候得は
           外ニ五百石被為拝領御約束と申傳候

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする