津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「旦夕覺書」--風・26(1)

2015-02-12 15:39:22 | 史料

                  堀内傳右衛門の旦夕覺書、随分御休みをしましたが再発進、風・26は大変な長文なので三回ほどに分けてお届けします。

                       一、廿年以前在宅不仕候前大風にて拙者家痛申候へ共たをれ家の者には御銀御借被成候 坪井近邊に渡邊
                          何某とて百石か被下候仁の屋敷の前通り見候へはつくろい能くいたし有之候 公義より御借被成候故
                          に誠に々々御恩は何事にも洩れぬ事拙者一ぱいの上にても倒家なくなく候へはつくろひさへ不成候
                          と心に思ひ其後内入に参候て咄申内に百石取には銀子いか程御借候哉と尋申候へは百石には三百目
                          か四百目かと唯今覺不申候 扨それより上はと尋申候へはいや其算用にて一萬石にても同前と被申候
                          拙者申候は扨々合點不参事に候 倒家も家にて可申候 たとへは長屋座敷奥とケ様に有度ものにて候 右
                          の高に成候ては千石餘取候人は大分に當り可申候と申候へはいや大身はつくろひは持かふりにてつ
                          くろわせ可然候 家多くつくろひ多く其上御借金銀取立 時小身者は取立にくゝ有之候由被申候故い
                          や々々小身者ならは年數御のへ候へはいかにもしても大あらめなる吟味と存候 長屋其外にて他國の
                          者も通り其屋敷々々のかこい新敷家たてると申候ても先長屋立次には座敷奥と昔は立たると承及候
                          尤なる事と存候 妻子有之候ても長屋に召置つかへ不申候と内入に申候へは尤とは被存候へ共惣體理

                          知儀人にて心には何も吟味御家老中の御讃談の上にて被仰付たるとの過たる事を申と被存たる様子
                          故別の咄に仕候 つく々々存候へは皆より屋敷拝領にて百石高に何程と其つもりにて三百石迄は同前
                          夫よりは上は段々にへり申候故に千石より上の者には下屋敷渡り申候 尤妙解院様御代には御家老にて
                          も下屋敷を御侍中居候 近所にては一ヶ所も不被下今の求馬殿御入候屋敷昔清田石見殿三千石にて居り
                          被申候 忠利公御申めされ候時屋敷もせまく家来召置候處長屋より外に地もなく川端迄御覧被遊山
                          崎に小身屋敷二軒御座候則今の川端の裡門の向にてこさ候 拙者覺候ては石見殿拝領の下屋敷御小々
                          姓目付に被下候て知る人にて覺申候 右之通山崎にても石見殿屋敷狭き事御覧被遊御直に被下と老父
                          被申候 又江戸等へ参候侍中御借銀渡り申にも拙者初ての時分迄は知行高三百石迄は銀高多く夫より
                          上は高へり申候事覺申候 近年は大形百石より一萬石迄同し様成事御座候 其時分はは舎人殿一人にて何
                          やかや銀米御内證方御座候 此事可申と存候て工夫仕候 此中同名喜左衛門と口論仕私勝申候と申候
                          へは何事かと御申候故右申候趣一々申候へはいかにも々々々々其様に委敷はならぬ事と神以被申候
                          拙者心の内には何の成ましき事なく一國の内の善悪他圖(國カ)へ聞へ段々天下におよひ申事少心付たる拙
                          者或方へ不圖存寄咄申候 奉行目付は心付申候ても中々内入初として御家老中の被申候事のみ請合愚
                          意の難被申時節にて何とそ心かけ候はゝ別儀を以も愚意の被申ぬ事は有間敷候 老父の咄に惣別昔より
                          能の狂言にひけそりとて髭そり申狂言或は心に叶たるものにはきれる衣類不残やりはたかに成候狂言
                          いたし大将に見せ被申候狂言に心付申髭そらせ候時剃刀者の勝手能様に主に申事ならぬ物故衣類も
                          気に入たる者にはわけもなく金銀知行遣候 左様成人々に見せ心つく様にと昔善人狂言仕候者も人な
                          れは善人と申は皆ケ様成事と被申候 其志にて狂言も名人と申たると存候 幸右衛門は只今御櫛上被申
                          候間此心付可候 御幼少様成れば申上よく御成人にてならぬ事に候 拙者事如御存軽き御奉公迄勤堀
                          内中になき歩行に出申候へども右の様に心付咄申候事に候 其以後承候へば大風吹たをれ家吟味細
                          かに成たると承申候 のみの息も天にあかるとたとへ事昔より申傳候 忠節不幸主人の何その時昔は追
                          腹孝行も父子難養物にてなく候へば知れ兼申候 聖賢さへ見ぬく書物に見へ申候 然共天の明らかに忠
                          孝も死後に顕れ候
                            衣食住身も軽くして心をば高く思ひて道を正せよ
                                                   旦夕 おかしく候 

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■小林左七左衛門家断絶の怪

2015-02-12 08:35:53 | 歴史

 肥後の鳳凰といわれた重賢公が、「余に自慢すべきもの三あり、一は堀平太左衛門、一は小林左七左衛門、一は水前寺の別墅なりと」
「堀平太左衛門を勝手役に、小林左七左衛門(一房・4代)を外様役にしておくと心を安ずるに足る」と幕府の老中にの問いに答えたという。(細川霊感公p334)
この一房、志水(伯耆系)三左衛門二男にして、小林平太夫(3代 小姓頭・用人、八百石)の養子となり、宝暦元年家督、同四年御中小姓頭、同五年小姓頭となり食禄千石を領す。
天明五年六月病にて死去す。継嗣半太夫(5代)は養子で堀次郎右衛門時房の六男とある。

そんな小林家だが左七左衛門の孫・左七左衛門(6代半太夫・養子)の代に至り、「御知行被召上候 天保六年七月跡目断絶被仰付 高七百五十石」となる。何事かと思い左七左衛門・一房について肥後先哲偉蹟(正・続)巻四 p517をみると、この半太夫は文政七年(1824)自殺をしている。
そして11年後の天保六年(1835)閏七月、この変死事件につき「妻御不審にて召し捕られ、御吟味中相果断絶」と記している。

名門小林家で何事が起きたのか 、当然のことながら先祖附などでは真相は闇の中である。

コメント (2)
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