ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

宿場の発達

2017-01-29 19:20:36 | 日記
 以前古代の旅(貴族編庶民編)を書きましたが、当時の旅は基本野宿で、運が良ければ寺社や民家に泊まることができる程度でした。駅伝制もありましたし、『今昔物語』には旅籠の文字も散見されますけれど、一般人の宿泊施設はまだまだ未発達で、寺社や民家も宿泊を確約するものではありませんでした。近世になって街道が整備され、宿場が発達してくると本格的な宿泊業ともいうべき旅籠ができ、利便性のある時代になります。

 五街道は幕府直轄の道中奉行の支配下にあって、公儀の輸送に必要な人馬が常時用意されていました。いつ何時でも旅行者や旅行者の荷物を宿から宿へ輸送する役目があったんですね。また公用の旅行者(公家・諸大名・幕閣の役人等)のための宿泊機関を提供する役目があって、本陣・脇本陣が置かれていました。公用人のためのそうした制度は古くからありましたけれど、参勤交代によって一層発達したわけです。

 品川   藤枝(問屋場風景)

 この公的宿泊機関に対応して、私的旅行者のための旅籠ができてきます。そうなると癒しを求めて、或いは参詣目的で庶民の旅行ブームが始まります。享保の頃から盛んになり、お伊勢参りや江戸見物などに足を運び、宝永2年には362万人の人が「おかげ参り」をしたといわれています。旅の目的は社寺に詣でることが多かったようですが、しだいに物見遊山(ものみゆさん)の旅も増え、『東海道中膝栗毛』などの名作が生まれてきます。

 本来は公用人のための人馬継立(じんばつぎたて)の中継地であった宿駅はその機能を逸脱し、庶民の交流の場、或いは遊里の場と化していきます。宿財政の逼迫を防ぐために幕府は風俗の乱れを取締ることもできず、法令を出してはいても見逃すことの多い状況になって、飯盛女(めしもりおんな)は益々増えていくのです。

 御油   赤阪

 広重の「東海道五十三次」の中でも有名な御油(ごゆ)には、旅籠の客引きをする留女(とめおんな)が描かれています。膝栗毛にも「…両側より出でくる留め女いづれも面をかぶりたる如くぬり立てたるが袖をひいてうるさければ…」とあって、留女のすさまじさに辟易している描写があります。御油から16町先には赤坂の宿があって、広重の絵には赤阪宿に多いという招婦が描かれています(右側)。名所記にも「宿ごとに遊女あり、立並びて旅人をとどむ」とあり、女の嬌声が響く宿場だったようです。

 飯盛女はいうまでもなく遊女ですけれど、彼女たちは親のために女衒(ぜげん)に連れてこられた農村の女性が多く、見た目ほど強いわけでも、したたかだったわけでもありません。他に生きる術(すべ)がなかったのです。現代に生きる私たちは、江戸時代の強くしたたかに見える女たちが、決して幸せだったわけではないことを忘れてはなりません。

 マイホームページ   おすすめ情報(『薬子伝』)
 
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 小正月 | トップ | ハワイの大聖堂 »
最近の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事