ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

「信長公記」に見る本能寺

2018-03-11 19:33:19 | 日記
 今回は本能寺シリーズの最後になります。「信長公記」といえばご存じの方も多いと思いますが、永禄11年から天正10年までの15年間を記した信長の伝記で、作者太田牛一(おおたぎゅういち)は信長や秀吉に仕えた戦国武将でした。綿密に書かれた「信長公記」は軍記としても信憑性が高く、これなくして信長は語れないというほど史料性の高いものになっています。

 角川版「信長公記」

 それでは「信長公記」(角川文庫版)から本能寺の場面を抜き書きしてみましょう。角川版は原本ではなく、読解の便をはかり、読み下し文にしてあります。それをさらに私流に読み下し、そのまま読めるようにしてみました(例:「去程に」→「去るほどに」)。

 まず天正10年6月の記事から「去るほどに不慮の題目出来して、六月朔日夜に入り、丹波国亀山にて惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)光秀逆心を企て…」で始まる本書は、老の山で京へ出る道を選び、いよいよ本能寺へ。「既に信長公御座所本能寺取巻き、勢衆四方より乱れ入るなり。…ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打入れ候(そうろう)。是は謀叛か、如何なる者の企てぞと御諚(おおせ)の処に、森乱申す様に、明智が者と見え申候と言上候へば、是非に及ばずと上意候」。

 ここには信長と森乱丸の会話が見られ、謀叛人は誰かという問いに対し、乱丸は「明智が者と見え申しそうろう」と答えています。そして信長の有名な「是非に及ばず」という言葉が続くわけですが、この後討死した御厩衆、森三兄弟を始めとする御小姓衆の名があり、町の宿にいた湯浅甚介と小倉松寿はこの異変を聞いて駆けつけ討死、御台所口では高橋虎松が比類なき働きをしたと語られています。

 さて信長はといえば、「信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、其後御鑓(やり)にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵(やりきず)を被(こうむ)られ引退き、是迄(これまで)御そばに女共付きそひて居り申候を、女はくるしからず、急ぎ罷出(まかりい)でよと仰せられ、追出させられ、既に御殿に火を懸け焼来(やけきた)り候」となっています。

 信長は初め弓を引き、鑓をとって戦ったのですが、肘に鑓疵を負い、もはやこれまでと思ったのでしょう。傍にいた女たちを逃がすんですね。鬼のような男と思われた信長にも優しい面はあったようです。そしてその頃には既に御殿に火が回っていました。

 このあと、「御姿を御見せ有間敷(あるまじき)と思食(おぼしめ)され候か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸(納戸)の口を引立て無情(なさけなく)御腹めされ」と続き、信忠の話へと移っていきます。信忠の宿は妙覚寺だったのですが、構えのいい二条御所へ立て籠もることになり、親王や若宮を逃がしたところへ明智勢が押しかけ、「御敵、近衛殿御殿へあがり、御構を見下し、弓・鉄砲を以て打入れ…」となって近衛前久が疑われる原因となるわけです(「本能寺事変の黒幕と目された男」)。

 本能寺の真相は太田牛一が記した本書が基本です。ただ一人の目だけでは見えないものもある筈なので、いろいろな説が出て来るのも必然といえるかもしれません。

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