児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

ディレクターがアートに関わること

2008年11月17日 | 徒然
アンパンマンの作者やなせたかしが出していた「詩とメルヘン」という雑誌を知っているだろうか。やなせたかしの詩は本屋で探しても見つからないことが多く、最近若い人に言ってもほとんど通じないので困るのだけれど、10数年は続いた雑誌である。絵と詩なので一種の雑誌絵本のようなものだけれど、絵本と違うのはお話しではなく詩であること。
数年前に、アウトリーチで、後藤由里子さんの作った「はじまりは・・・」という曲を詩とともに読んで,続けて「ディア」を演奏したいといってきたのは宮本妥子さんである。そのときに何の詩を読むか、で幸田のプロデューサー本間さんに図書館で探して欲しい、といったのは、数人の詩人の名前。彼はその中からやなせたかしのいくつかの詩を選んだ。「ひかりよ」という詩を読むことにしたのは宮本さんだけれど、そこに演奏家とディレクションとの心のつながりが出来、それが実現したときの満足感も普通以上になるのかもしれない。
そのときは後藤さんが読んで宮本さんが演奏したのだけれど、先月、宮本と中路さんのアウトリーチでは宮本さん自身が読んで中路さんが演奏した。彼女はこれをやるとつい涙ぐんでしまうのだそうだけれど、その話は本間さんが聴いたら本当に喜ぶだろうなあ,と思った。
詩を捜すのは全体から見れば小さな参加だけれど、心が繋がる参加のしかたはいくら小さくても意味がある。繋がろうと意識しないと探せないしね。
詩については演奏家は素人だけれど、それが彼らのプロフェッショナルな部分(音楽)と繋がることで、価値がついてくる,ということはあると思う。アウトリーチでは特にそのことが含まれていることに意味がありそうな気がする。もちろんそうしなくてはいけない、ということではないけれど。


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