
2024/12/05 thu
前回の章
何か生きているのが嫌になった。
もうそろそろいいんじゃないか。
俺のした一連の行動は周りから見れば、生き恥に過ぎないのだ。
無価値な男。
楽になりたい。
死ねば何も気にしなくていい……。
電話が鳴る。
近所の先輩である須賀栄治からの着信だった。
自然とポケットから携帯電話を取り出している自分に気がつき、無性におかしくなった。
自殺をしたいと思いながら、誰からの電話を気にしている事に……。
こんなタイミングで鳴るなんて、まるで神の啓示みたいだ。
出るしかないだろう。
「もしもし……」
「あ、智ちゃん。なかなか忙しくてごめん。もっと早くお祝いをしようと思ったけど、あの頃はみんながたくさんいたでしょ? だから落ち着いてからゆっくりお祝いをしようと思っていたんだ……」
「……」
「あれ? もしもし…、聞こえる?」
「は、はい…、聞こえます」
「これから一杯どうだい? 遅くなったけど、本や試合復帰の祝いをしたいんだけど」
「ありがとうございます。すぐ準備して向かいます……」
電話を切ったあと俺は部屋まで戻り、膝を抱えて静かに泣いた。
まだ、こんな俺に価値があると言うのか……。
素直に栄治さんからの電話が嬉しかった。
ここ最近ずっと塞ぎ込んで考えていた。
憎悪。
葛藤。
渇望。
嫉妬。
妬み。
ショック。
様々な想いが体内を堂々巡りして、気が狂いそうになった。
しかしここに来て、感動という新しい感情が芽生える。
自棄になって命を投げ出そうとするのは、本当に簡単な事。
俺が尊敬してきた人物を思い浮かべろ。
ジャンボ鶴田師匠。
全日本プロレスのエースだった三沢光晴さん。
いつだって胸を張りながら、どんなに苦しくたって偉大な後姿を見せてくれたんじゃないのか?
俺は短い期間ながらも、あの人たちと一緒の空間にいられた事を今だって誇りに思っているはずだ。
いじけるのは、もういい……。
そんなもの、誰にだってできるんだからさ。
孤独?
俺のどこが孤独なんだよ?
今だってこうして栄治さんが気に掛けて、飲みに誘ってくれている。
結婚していないから悲しむ人はいても、困る人はいない?
本当にそうか?
もっとよく周りを振り返ろうよ。
少なくても自分の分身である『新宿クレッシェンド』にサインをした人たちに、泥を被せるような行為になってしまう。
子供はいないけど、俺の分身であるクレッシェンドが、一万冊もこの世にあるんだぞ。
生み出した俺は、もっとしっかりしなきゃ。
駄目な出版社なら、もっと他に方法を考えろ。
まだやるべき事はすべてしていない。
疲れたなんて十年早いだろ?
ジャンボ鶴田師匠に少しでも追いつきたくて、色々な事をしてきたんじゃないのか?
賞を獲った時、俺はブログで何て書いた?
もう一度見返してみよう。
いい加減な気持ちであの記事を書いた訳じゃない。
獲ったぜ、グランプリ!
二千七年発月三十一日。
みなさん、本当にありがとう。
俺の処女作『新宿クレッシェンド』。
みなさんのおかげです。
ありがとうございます。
初心…、ずっと信念を持って、ここまで来ました。
師匠…、ちょっとは追いつけましたか?
まだまだですよね……。
より一層、頑張ります。
岩上智一郎
そう…、みんなの前で堂々と俺は、こう書いてしまったのだ。
何も無かったところから…、無の状態から俺が生み出した栄誉だろ?
周りが何と言おうと、もっと自分を誇ろう。
そしてまだまだ頑張ろうじゃないか。
栄治さんのくれたたった一本の電話。
カラカラに乾いた砂漠の中で、一滴の水を見つけたような感覚だった。
手早く着替えを済ませ、外へ出る。
先輩は飲む場所をバー『アビーロード』を選んだ。
この店へ来るのはずいぶん久しぶりな気がした。
確かブランド好きな女と来たのが最後だったから、八年ぶりぐらい?
それでもバーの気さくなマスターは、俺の事をちゃんと覚えてくれていた。
「智ちゃん、グレンリベット好きだったでしょ? ボトルも頼んで入れてあるから」
栄治さんの憎い気遣いには感謝しかない。
ご馳走してもらった酒と料理を胃袋に納めながら、もっと頑張って生きなきゃと心の中で叫んだ。
「本当に祝うの遅くなっちゃってごめんね」
「いえ、とんでもないですよ。今日はありがとうございます」
心の底からお礼を言う。
しかしそれでも栄治さんには、これまでの現実を正直に話せる勇気はなかった……。
またタイミング良く、一人の女性が俺に連絡をくれた。
教会の神父の妻、望である。
試合には心配し過ぎて来られなかったという彼女は、こんな俺に逢いたいと正直に言ってくれた。
十年間真面目な妻として暮らしてきたが、俺に女としての気持ちを素直に伝えたかったのだろう。
整体を閉めた去年の年末に会ったきり、メールや電話でやり取りをしていただけの俺は、望と逢いたくて仕方がなかった。
逢って思い切り彼女を抱きたかったのだ。
二千八年二月十一日。
夜中になると、車で彼女の指定した場所へ向かい、今年になって初めて望と逢う。
「本当は自分でもいけない事だと分かっているんだけど…、でも、試合のあと本当は今すぐにでも智さんに逢いたくて……」
やや下をうつむきながら離す望。
神父の妻、そして二人の子供の母親という自覚を俺が取り払い、一人の女としての自我に目覚めさせてしまった。
いけない事だと分かっていながらも、俺は望にすがりつきたかった。
彼女の持つ優しさに触れ、ボロボロに傷ついた心を癒したかったのだ。
「ちょっとゲームセンターにでも寄ろうか?」
逢っていきなりホテルへというのも違うような気がして、俺たちはゲームセンターへ向かう。
プリントクラブの中で写真を撮っている内に、俺は望を抱き寄せ、何度も強引にキスをした。
「こういうの迷惑か?」
「ううん…、私もこうしてもらいたかった……」
「望……」
性欲を抑えきれず、すぐホテルへ向かう。
部屋に入るなり、彼女の服の上から胸をまさぐり、舌を口の中へ捻り込む。
パンティーの中へ手を差し込むと、彼女はグチャグチャに濡れていた。
「俺のがほしいか、望」
「ほしい…、智さんのがほしかった」
お互い服を着たままセックスに没頭する。
旦那の独りよがりなセックスでは一度も気持ちいいと思った事がないと語った望。
結婚してから初めて一対一で逢った異性が俺だと言っていたが、彼女もこのような展開を望んでいたのだろう。
夜中から朝になるまで俺たちはお互いを貪り合い、とにかく語り合った。
ビックリしたのが教会の神父である旦那の話だ。
教会に来る人間の前ではいつもニコやかに笑っているらしいが、家に入るとわがままで気性が荒い性格を全面的に押し出すらしい。
毎日のように飲み歩き、家事などは一切手伝わない。
まあこの辺ぐらいなら、ほとんどの男はそうじゃないのだろうか。
異様な部分を感じたのが、自分の気に食わない事があると、すぐ辺りの物に当たり散らし、妻である望や子供たちに酷い言葉を浴びせるという部分だった。
物が壊れるまで地面に叩きつけたり、壁へ投げつけたりと暴力一歩手前な行動を彼女は忌み嫌っていた。
もっと牧師って職業は崇高なものだと思っていたが、そんな性格でも務まるのか。
望以外にも、これまでたくさんの人妻を抱いてきたが、そのほとんどは自分の旦那に不満がある女性が多い。
こちらが少しその不満をつつくと、膨らんだ風船が割れたように一気に悪口を話し出す。
そういった点で言えば、望は少し変わった女だった。
旦那のいい部分も悪い部分も、同じように淡々と事実だけを話す。そんな感じである。
ただ、一つ分かった事があり、彼女は今の生活を結婚してしまい、子を産んでしまった為の義務としてとらえている点であった。
俺が幼少期、母親の虐待にあったように、それぞれの数だけ人間には様々な過去や道のりがある。
彼女は俺の好物だったステーキやハンバーグを覚えてくれていたようで、自分の得意料理であるミートローフを作って持ってきてくれた。
アメリカの田舎料理らしく、ハンバーグが大きくなった化け物バージョンのようなものだ。
これは食べてみて本当に美味しく一発に気に入ってしまう。
ぜひ俺もミートローフを作ってみたいと伝えると、望は丁重にレシピを教えてくれた。
ミートローフの作り方は、ハンバーグと基本的には変わらない。
挽肉を使った練り物の料理は、自分の工夫次第でいくらでも豊富なバリエーションを作る事ができる。
それでも一から料理を覚えるかのよう熱心に彼女の説明を頭の中へ叩き込む。
甘辛い味の決め手はピカントソースというもので、作り方は至って単純だった。
ケチャップにブラックシュガー、粉辛子にナツメグを煮詰めながら混ぜるだけ。
このソースをパウンドケーキを作る箱で型どったミートローフに塗り、オーブンでじっくり一時間ほど焼けば完成である。
これなら俺でも簡単に作れそうだ。今度試してみよう。
「智さんはね、お肉ばかりで野菜をあまり取っていないなあと思ったから、大量にサラダや煮物も作ってきたの」
笑顔でホテルのテーブルの上に料理を並べる望。
こういう子と一緒に暮らしたら、俺もずっと笑顔でいられるのかもしれないなあ。
望と接している内に、そんな事をぼんやりと考える自分がいた。
こういった家庭的な女性と共に、食事をしてみたかったのかもな……。
どんな言い訳をしようと、綺麗事を取り繕うおうと、すべては偽善に過ぎない。
世間一般で言うところの不倫。
俺がした行為は、それ以外の何物でもないのだから。
でも、望を抱く事で、救われたような気分になれた。
この先どうなるか分からなかった俺は、小柄な身体の望を思う存分これでもかというぐらい抱き、セックスに溺れる。
そうする事で現実逃避をするかのように……。
朝になった帰り際、望は不倫した自分を振り返り、とても悩んでいるように見えた。
これで俺に三回抱かれているのだ。
気にしないほうがおかしい。
「智さん…、やっぱり私…、こういう事をしたという事実を思うと、とても苦しい……」
「それは望がまともな感覚の持ち主だからだよ」
「私がまとも?」
「うん、超がつくぐらい真面目だから。旦那にというより、子供たちの事を考えると、心が痛いんだろ?」
俺が小さい時いつも夜遊びをしていた両親。
このように異性と不倫を繰り返していたのかもしれない。
俺はそんな両親を軽蔑して育った。
だけど、今の自分はどうだ?
まったく変わらない事をし、望にもそれを半ば強要させていた部分がある。
いくら自分の現状や立ち位置が辛いからといって、他の異性にもたれ掛かるのは単なる逃げでしかない。
でも今までの人妻と決定的に違うのが、快楽に流されて逢った訳じゃない点である。
純粋に彼女と逢いたかったから逢う。
あくまでもセックスはその流れでしかない。
だからこそ罪悪感を覚える望の気持ちは大切にしてあげたかった。
「本当はもっと智さんに逢いたい。ずっと一緒にいたい。でも…、前もそうだったけど、家に帰って子供たちの無邪気な笑顔を見ると心が痛くなってしまうんだ……」
彼女の葛藤の中に、旦那の姿はまるで見えなかった。
「そんな望だから、俺は君を大事に思うし、何度だって逢いたいと思った。矛盾しているように聞こえるかもしれないけど」
「私が独身だったら、迷いはないと思います……」
裸のままベッドから出て、スーツからタバコを取り出す。
ホテルの部屋の窓を開け、外の冷たい空気を浴びながら、大きく煙を吐き出した。
「しょうがないよ。すでに知り合った時、望は結婚していたんだ」
「何で私に逢おうって思ったんですか?」
真剣な眼差しの望。
何度このようなやり取りをしただろうか。
罪悪感に悩ませられる彼女は、何回も同じ答えを聞いて安心したいように思えた。
「シンプルに言えば、逢いたかったから。逢って実際に話してみて、素直にいいなあと思った。逆に聞くけど、何故俺と逢ったんだい? 今まで結婚してから一度も異性と一対一で会った事すらないんだろ?」
「う~ん…、何でだろう……。智さんとは『新宿の部屋』で知り合った訳だけど、最初ピアノを弾いている写真をプロフィールに載せていたでしょ? あれ見て、どんな人なんだろうって…。そのあと智さんは、ピアノ発表会の映像をみんなに見せてくれた時、演奏見てゾクッとしたの」
品川春美へ捧げるつもりで弾いたピアノ。
でもあの日、彼女は発表会へ来なかった。
実際に会場へ来て、俺の演奏を目の前で見てくれたら心を動かせる自信はあった。
でも、来ないんじゃ聴かせようがない。
辛い過去でもあるピアノ発表会。
それでも望がこうして評価してくれた事は素直に嬉しかった。
「ああ、前にもそれは言っていたよね。一人の女性の為に始めたピアノ。ずっと誰にも捧げる訳でなく、曲を弾いたという事実だけが残った。気付いたらピアノは、いつの間にか辞めていて、別のものを探し出した。それが小説だったんだけどね」
「うん、そのあと智さんは『新宿クレッシェンド』や『ブランコで首を吊った男』とか色々ネット上にアップしてくれた。私は智さんの作品を読んでいる内に、逢ってみたいなあって思ってたんだ」
「俺も望とチャットとかしている内に、あの頃付き合っていた女ともうまくいっていなかったし、逢ってみたいなあって思って誘った。それで本当に優しい子なんだなと、本当に抱いてみたかった」
「……」
直情的な言葉をぶつけると、望は困った表情をしながらうつむく。
「何故、何度も逢おうと思った? 一度だけだったら気の迷いで済む。でも、今日で俺たちが逢うのは四回目だ」
「去年、一年ちょっと間が空いていた頃は、智さんに抱かれた事を後悔していたんじゃなくて、自分の立場を考えていたら、逢いたいけど逢っちゃいけない。常にそうやって自分に言い聞かせてきたんだ…。でも、智さんが本当に賞を獲って本も出版して、試合にも出るってブログ見たら、逢って応援したいなあって…。実際に逢って試合の事を細かく聞いて、絶対に無事で戻ってきてほしいって、ずっと願っていて…。だからどうしても時間を作ってまた智さんに逢いたかったの……」
「逢ったら抱かれるって思わなかったのか? それが君を悩ませる原因にもなっている」
「逢って抱かれたかった……。夫の独りよがりな感じで抱かれるよりも、智さんに優しく抱いてほしかった……。でも…、家に帰って子供の顔を見ると……」
そこまで言うと、望は突っ伏して泣き出してしまう。
俺は頭を優しく撫で、ゆっくり口を開いた。
「うん、これ以上俺たちは逢わないほうがいいと思う。本音を言えば、何回だって望と逢って、何度だって抱きたい。でも、お互いの快楽の為だけじゃ、子供が可哀相だ……」
「本当に勝手でごめんなさい……」
「謝る事なんかないって。俺はこうしてまた望と逢えて、本当に幸せを感じているんだ。試合が終わったあと、たくさんの嘲笑や裏切りなどで心が深く傷ついた。細長い真っ暗な井戸の底に、膝を抱えてすべてを遮断しているような感覚だったんだ。でも、望がまた逢ってくれて、救われたって感じた。だから感謝さえしている」
「智さん……」
俺は強く葵の唇を奪い、再びベッドに押し倒した。
これが彼女と最後のセックスになるのだろう。
そう思うと愛しくて、激しく腰を振った。
目の前で何度も体を痙攣させながら、いく望。
凍っていた心に、暖炉のような暖かい空気が当たり、ゆっくり溶けていく。
そんな感覚を思いながら望を抱き締める。
あまりの気持ち良さに、俺は射精しそうになった。
普通にセックスをして、自然とこうやっていきそうになれた女性は、これで何人目だろうか?
ほんの数人しかいない。前に二年半ほど付き合っていた百合子とは、一度も自然に射精した事などなかったのだ。
今まで数え切れないほどの女を抱いてきた。
しかしほとんど自分自身がいかず、相手をいかせる事だけに念頭を置いたセックスだった。
「はぁはぁ…、智さん……」
「何だい?」
「あなたのが飲みたい……」
望にそう言われた瞬間、俺は我慢できなくなり、彼女の顔へ自分の一物を持っていく。
小さな口を大きく開く望。
俺はその中へ入れ、大量に射精した。
彼女は俺の精液を吐き出しもせず、そのまま全部飲み込んだ。
それを見てから崩れるように葵の身体に被さる。
体重を掛けないよう気をつけながら、そっと身体を抱き締めた。
この間まで自殺しようなんて考えていた俺が、こうやって女の身体に溺れている。
いい加減なもんだ。
いや、違うな。
いい加減とかの問題じゃなく、女って生き物が偉大なのだ。
望とはこれで関係がおしまいになるが、まだこれからも生きていこうという希望が沸いた気がする。
帰り道、望を途中の駅で降ろし、俺たちは別れた。
もうこれで、彼女と逢う事はない……。
別れる間際に『新宿クレッシェンド』を手渡す。
出版社から十冊ほど作者寄贈用としてもらっていたが、その内の一つは彼女へいずれプレゼントしようととって置いたのだ。
「智さんの大事な本を……」
「望…、君にもらっといてほしいんだ」
「……。大切にするね」
皮肉にも今日で出版されてから約一ヶ月が経つ。
お互い笑顔で別れると、俺は川越街道を真っ直ぐ運転した。
もう逢えないという事実が、心の中にポッカリとした空洞を作っている。
辛いけど、寂しいけど、現実を考えたら、この形が一番なんだ。
そう自分へ必死に言い聞かせた。
朝の八時過ぎなので交通量は多く、なかなか前へ進まない。
俺は信号待ちしている間、望へメールを打ってみる。
『これから教会で寝ずに仕事なんでしょ? 大丈夫かい? あまり無茶しないでね。望に何かあったら俺が悲しい。今日は本当にありがとう。君と逢えて幸せだった。 岩上智一郎』
送信してからもう一度文面を読む。
おかしいもんだ。
死にたいとこの間まで思っていた俺が、悲しいか……。
運転中右手に我が母校である私立西武台高等学校が見える。
国道二五四線と交差する浦和所沢街道。
そのすぐ先に母校はあった。
今では榊󠄀先生と同級生の新居ぐらいしか関わりなどないが、あの場所へ三年間も通った時期があったのだ。
思えば高校時代なんて、特に何の目的すらなかったっけ。
それでも毎日を楽しく生きていたような気がする。
何かにつけ絡んでは生徒をぶっ飛ばし、暴れていただけの学生時代。
榊󠄀先生がいつも必死に俺をかばってくれたよな……。
母校を通過し、ぼんやり車を走らせながら過去を振り返る。
今、三十六歳だから卒業してからちょうど倍の時間が経った。
その十八年間で俺は何をやった?
何を得た?
学校を卒業し、最初に行ったのが自衛隊。
掃き溜めみたいな場所だったが、俺は楽しく生活を送っていたよな。
三ヶ月で朝霞から北海道へ飛ばされ、理不尽な暴力に切れ、上官を殴って大暴れした雪国の町。
そこを辞めてから出逢った香織。
雪の上で三時間待ったっけな。
興味本位で探偵をやってみたが、人間の裏を覗く仕事なんて、とんでもないって事だけが分かった。
ちっぽけな平子の広告代理業。
十六万のワープロをローンで買わされたり、家の車を利用されたり、初任給ではバーでたかられたりとメチャクチャな社長だったっけ。
まだ生きてんのかな、あいつ。
横浜での高尾との生活。
よく接してくれた兄貴分だった彼を俺は裏切ってまで、プロレスラーになりたいと強行した。
二十歳の時だから、もう十六年も会っていないのか。
元気でやってんのかな。
全日本プロレスのレスラーになりたくて必死にトレーニングに明け暮れた日々。
身体を大きくする事しか頭になくて、人生で初めて本気で取り組んだ事だった。
左肘を壊し、夢は破れたが、地獄のような鍛錬を送った俺は、健康で頑丈な筋金入りの身体を手に入れた。
もうジャイアント馬場社長も、ジャンボ鶴田師匠も、今はこの世にいない。
でも、今でもあそこにいた事は俺の誇りだ。
心の支えだったものが無くなった俺は、ホテルでバーテンダーをしながら自分の居場所を探した。
でも、そんなものは探すものじゃなく、自分で作るものなんだと実感する。
あの場所で得たものはバーテンダーのスキルと接客術。
先輩坊主さんと裕子さんの結婚式が決まり、職を無くした俺は新宿歌舞伎町へと新天地を求めた。
そう言えば格好良く聞こえるかもしれないが、あの街に世間をまるで知らない無知な俺が行ったのは、金を稼ぐ為だった。
喫茶店とは名ばかりのゲーム屋という存在を初めて知った当時。
ヤクザ者のオーナーである鳴戸には妙に気に入られた。
しかしその背景には、俺を筋者に入れようという魂胆があったっけ。
カジノでの無意味な死闘。
そして六本木辺りの大物ヤクザ事務所からのスカウト。
あの街へ行って約一ヶ月で、そんな事があった。
それでも何故か歌舞伎町という街が、自分にとって非常に居やすい場所だと肌で自覚した俺は、裏稼業という世界へ自ら足を再度踏み入れた。
全日本プロレスにいたという信念。
それだけが俺の支えだった。
そういった生き方が味方したのか、徐々に金というものが自然に集まるようになった。
おそらく同世代の中ではかなり稼いでいたんじゃないかな、あの頃は……。
おかげで金に目が眩み、ずいぶんと馬鹿をしながら無駄遣いをしたもんだ。
そんな自分が嫌いになりそうになった時、俺はまた格闘技の世界へ復帰したいと思い、身体を鍛え出した。
強さというものに自信が満ち溢れていたあの頃の自分に戻りたくて、またトレーニングを再開した。
だが皮肉にもその間に世話になった鶴田師匠は亡くなってしまった。
何の恩も返せずに……。
目的意識があまりないまま、総合格闘技の試合へ約七年ぶりに復帰した俺は、主催者側の汚いやり方に怒り、出場した大会を壊して表舞台から消えた。
どんどん歌舞伎町という街に染まっていく俺。
金を稼ぎ、すべてを遣い切るように日々遊ぶようになった。
あの頃もっと将来を見据え、真面目に金を貯めていたら、今のような惨めな生活など味わわずに済んだものを。
そんな時期に出逢ったミサキ。
家を出て行ったお袋に娘がいるという噂を聞いた時期でもあった。
そんなタイミングも重なり、俺はミサキを妹代わりのように可愛がったが、気付けば一人の女として見ている事に気づいた。
ハッキリ自分の気持ちを言えなかった俺を置いて、ミサキは沖縄へ行ってしまった。
あいつとの連絡も、ずいぶん減ってしまったが元気でやっているのだろうか?
あの時ちゃんと俺が告白していたら……。
いや、もしそうだったら俺は小説など書かなかっただろうな……。
しばらく務めていたゲーム屋系列の崩壊。
俺は裏ビデオ業界へ行く。
この辺から人生が狂い出したのかもな。
日々やるせない思いで過ごす中、出逢った品川春美。
何故かどうしても彼女をものにしたかった。
今までのようなやり方で落ちないと思った俺は、新しいものを捧げるべくピアノを始めた。
ただ月に百も二百も稼いでいた頃の感覚で麻痺していた俺は、今思えば短気で非常にわがままだった。
俺に呆れた春美はピアノ発表会にすら来てくれず、思い切りフラれた形になった。
希望も目的もない俺に、週末になるとスパルタ教育でパソコンを教えてくれた坊主さん。
何とか坊主さんより優れたスキルが欲しいと考えていた俺は、小説というものにチャレンジしてみる事にしたっけ。
何の勉強もせず、ただ書いてみようと思った作品が賞を獲ってしまうなんてな……。
でも、以前弟の貴彦に言われたように、小説では飯など食えない現実。
もっと稼いだ金は大事にしなきゃいけなかったのだ。
周りから人生を舐めていると思われても仕方がないような生き方をしてきた俺。
もう同級生のほとんどは結婚し、子供を作り、親として人生をまっとうしている。
今の俺はそれに比べて何だ?
何もないじゃないか。
叔母さんのピーちゃんは、「人間、忍耐、我慢が一番必要だ」と言っていた。
イライラする感情を抑えてどうなる?
常にそう思い、自分らしく生きてきたつもりだ。
しかしそれは歌舞伎町だったから通じただけなのかもしれないな……。
歌舞伎町に見切りをつけた俺は、表社会でまっとうにやっていくしかない。
でも、そんな事をやっていけるのか?
家では忌み嫌われし存在な俺。
呪われていると自身に流れる血を恨み、性格的にも破綻している自分が社会で普通にやっていく……。
できるのかよ、そんな事……。
もうやめよう。
さっき望に癒してもらい、救われたんじゃなかったのか?
これ以上自暴自棄になってもしょうがない。
何の目的もないけど、生きようとする最善の努力はしよう。
本が発売されたらもっと明るい未来が待っているなんて、ただの俺の妄想に過ぎなかった。
いいじゃないか、本として全国に出版されただけでも。
おそらく『売れない作家』というレッテルを貼られるのが怖かったのだろう。
それを変に気にし過ぎて神経をすり減らす日々。
何を言われても、もう気にするなよ。
どう足掻いたって何もならない。
生きていれば腹も減るし、女も抱きたい。
望と入ったホテル代だって掛かるのだ。
印税という金が入ってこない以上、プライドとか気にせず働くしかない。
望の目の前では精一杯格好をつけたが、まだまだ彼女と逢いたかった。
そしてこの腕で抱き締めたかった。
携帯電話にメールが届く。
望からだった。
『私も、智さんと出逢えて幸せでした。与えられた一日を大切に歩んでいこうと思います。私みたいな者に、優しくしてくれて本当にありがとうございます。 宮下望』
「……」
私みたいな者?
彼女の言い回し方が気になった。
何故あんなに優しい性格なのに、自分をそう卑下する?
少しでも勇気付けてあげたかった。
『君のような優しくて心を癒してくれるような女性には、初めて出逢えた。だからこそ、望はもっと幸せでいなきゃいけないと思うし、俺はそれを強く願う。 岩上智一郎』
運転しながらなのであまり長くメールを打てなかったが、言いたい事を簡潔にまとめて送信する。
格好なんてつけず、「もっと望と逢いたい」、そうやって正直に言うべきだったのかな。
でもそれを言う事で、彼女の現実をさらに悩ませてしまうだけ。
これで良かったんだ……。
すぐ望からメールが入る。
『ありがとう。智さんの事…、一生忘れないから……。智さんの幸せを心から祈っています。 宮下望』
俺の幸せか……。
一体俺の幸せって何だろう?
望のような心優しき女性がそばにいてくれるなら、幸せを感じる事ができるかもしれない。
女の数なんて腐るほどいる。
しかし、これだけ相性が合う相手なんて、そうそういるものでもない。
一旦車を停める。
ちゃんとメールを打ちたかった。
『俺だって望を忘れないよ。望が俺の幸せを願うように、俺も君の幸せを祈る。日々明るく元気でいるように…。君の存在は俺の中で大きくなり過ぎてしまった。このままズルズル逢っていたら、望のいない毎日なんて考えられなくなりそうだ。だから今日で終わり。これで良かったと思う。本当にありがとう。 岩上智一郎』
何度も文面に目を通し、声に出して読んでみる。
今、これを彼女に送ってどうなる?
せっかくお互いけじめをつけたばかりなのに。
俺はメールを送らず、保存をしておくだけにした。
これ以上のやり取りはモラルや良識を壊してしまう。
今日で終わったんだ。
メールも何も連絡自体やめておこう……。