さて、もう一つ。表(その1項に掲載)の右蘭にはその時に発掘された瓦について、どうであったかを報告書から抜粋しています。実は今回、奈良文化財研究所紀要の2015―2018を調べていて、第186次調査で、「S D1901Aからはどの土層からも一切瓦が出土しない」という報告があることに気がついたのです。おや?と思って調べたのがこの表の右欄なのです。
「運河」が機能していた時代の土層は粗砂(流砂)が堆積している層と考えられていますが、そこから出土した瓦です。これも表の通り一目瞭然、全調査区を通じて殆ど出土しないのです。軒瓦については皆無です。摩耗した丸瓦や平瓦が若干出土するといいます。これは一体何を表しているのでしょうか。
S D1901Aは藤原宮建設のための資材運搬の運河でしょう。何を運んだのでしょうか。木材を運んだらしいことは万葉集役民の歌から推測されています。それは当然でしょう。筏を組んで運んだであろうことは十分に推測できます。一方、藤原宮の中枢宮殿は全て瓦葺きです。今時の瓦とは違って、デカくて重い。茨城県立歴史館には、古代平瓦のレプリカがありました(2017年)。「持ってみてください」とあったので、持ち上げてみましたが、大変な大きさと重さだったことを思い出します。しかも割れやすい。これを舟で運ばずしてなんのための運河か、と言いたいですね。大量の瓦を舟に積んで静々と運河を遡る図が想像されるでしょう。
しかし、表をご覧のように運んだ形跡がないのです。運んでいれば何らかの痕跡が運河には残るでしょう。一枚も割れなかったのでしょうか。運河に沈んだ瓦はなかったんでしょうか。尤も、宮造営の最終段階での瓦生産は藤原宮朱雀門直近の日高山瓦窯だと言われていますから、最後の方は馬の背に乗せて運んだ可能性もあります。しかし、物凄い枚数です。建設初期には四国から、淡路からあるいは江州からも運ばれています。藤原宮中枢宮殿の建設現場に直行する運河があるのですよ。木津川や大和川からこの運河に入って運ぶべきでしょう。なぜ、使わなかったのでしょうか?不思議ですよね。
わたくしのこれに対する判断は単純です。「藤原宮建設のための運河ではなく、もっと前に使われていて、藤原宮建設当時は既に機能停止していた」と考えるのです。藤原宮造営とは関係のない、一時代前の人工物だと。では何だ?と詰問されると困るのですが、先行条坊が機能していた時代に使われていた運河か、堀川(湊哲夫説)か、排水路か宮殿周濠の一部かというところでしょうか。いずれにしろ、自然の流路つまり「河川」ではない。自然勾配に抵抗しているのですから、人工的な工作物であることは間違いないでしょう。とにかく、乾坤一擲の解釈で済ますのではなく、「誰が」「何のために」「いつ」、開削したのか?が改めて問われるべきなのだと思います。斯界の通説にしてはいけません。
余談ですが、もし、わたくしがこの藤原宮建設用の仮設運河を計画するとすれば、内裏外郭東官衙と東方官衙を分ける東一坊大路を使いますね。この街路は先行条坊であり、宮建設以前からずーっと宮中枢を通じている、かつ、その街路は藤原宮の建設計画でも街路になっているのですから。建物などの施設が建設される予定はありません。運河として利用しても、最後に埋め立てて街路と側溝に仕上げれば良いのです。合理的な案だと思いますが、どうでしょう? いずれにしろ、この「SD1901Aの流砂層からは瓦がほとんど出土しない」という考古学的事実は、拙著脱稿後に気がついた今ひとつの「SD1901Aは宮建設の仮設運河ではない」傍証ではないかと考えているのです。(完)
「運河」が機能していた時代の土層は粗砂(流砂)が堆積している層と考えられていますが、そこから出土した瓦です。これも表の通り一目瞭然、全調査区を通じて殆ど出土しないのです。軒瓦については皆無です。摩耗した丸瓦や平瓦が若干出土するといいます。これは一体何を表しているのでしょうか。
S D1901Aは藤原宮建設のための資材運搬の運河でしょう。何を運んだのでしょうか。木材を運んだらしいことは万葉集役民の歌から推測されています。それは当然でしょう。筏を組んで運んだであろうことは十分に推測できます。一方、藤原宮の中枢宮殿は全て瓦葺きです。今時の瓦とは違って、デカくて重い。茨城県立歴史館には、古代平瓦のレプリカがありました(2017年)。「持ってみてください」とあったので、持ち上げてみましたが、大変な大きさと重さだったことを思い出します。しかも割れやすい。これを舟で運ばずしてなんのための運河か、と言いたいですね。大量の瓦を舟に積んで静々と運河を遡る図が想像されるでしょう。
しかし、表をご覧のように運んだ形跡がないのです。運んでいれば何らかの痕跡が運河には残るでしょう。一枚も割れなかったのでしょうか。運河に沈んだ瓦はなかったんでしょうか。尤も、宮造営の最終段階での瓦生産は藤原宮朱雀門直近の日高山瓦窯だと言われていますから、最後の方は馬の背に乗せて運んだ可能性もあります。しかし、物凄い枚数です。建設初期には四国から、淡路からあるいは江州からも運ばれています。藤原宮中枢宮殿の建設現場に直行する運河があるのですよ。木津川や大和川からこの運河に入って運ぶべきでしょう。なぜ、使わなかったのでしょうか?不思議ですよね。
わたくしのこれに対する判断は単純です。「藤原宮建設のための運河ではなく、もっと前に使われていて、藤原宮建設当時は既に機能停止していた」と考えるのです。藤原宮造営とは関係のない、一時代前の人工物だと。では何だ?と詰問されると困るのですが、先行条坊が機能していた時代に使われていた運河か、堀川(湊哲夫説)か、排水路か宮殿周濠の一部かというところでしょうか。いずれにしろ、自然の流路つまり「河川」ではない。自然勾配に抵抗しているのですから、人工的な工作物であることは間違いないでしょう。とにかく、乾坤一擲の解釈で済ますのではなく、「誰が」「何のために」「いつ」、開削したのか?が改めて問われるべきなのだと思います。斯界の通説にしてはいけません。
余談ですが、もし、わたくしがこの藤原宮建設用の仮設運河を計画するとすれば、内裏外郭東官衙と東方官衙を分ける東一坊大路を使いますね。この街路は先行条坊であり、宮建設以前からずーっと宮中枢を通じている、かつ、その街路は藤原宮の建設計画でも街路になっているのですから。建物などの施設が建設される予定はありません。運河として利用しても、最後に埋め立てて街路と側溝に仕上げれば良いのです。合理的な案だと思いますが、どうでしょう? いずれにしろ、この「SD1901Aの流砂層からは瓦がほとんど出土しない」という考古学的事実は、拙著脱稿後に気がついた今ひとつの「SD1901Aは宮建設の仮設運河ではない」傍証ではないかと考えているのです。(完)