新庄嘉堂残日録

孫たち世代に語る建築論・デザインの本質
孫たち世代と一緒に考えたい謎に満ちた七世紀の古代史

◆日本書紀の水城築堤記事

2016年03月17日 | 7世紀古代史論
◆書紀は何故、嘘を書いたか?
日本書紀天智紀天智3年(664年)の条に「この歳、対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国などに防人と烽(台)をおいた。また、筑紫に大きな堤を築いて水を蓄えさえ、これを水城と名付けた」と記されています。この記事の建設年が嘘であることは既に明らかになっていますが、書紀は何故、こんな嘘を書いたのでしょうか? 
過去の通説は次のようなものでした。
663年は唐と新羅の連合軍と倭国軍が白村江で戦った年であり、倭国軍はその戦いに大敗した。大和朝廷は、このあとに起こるであろう唐新羅連合軍の日本列島への追撃の恐怖から、大防衛線を張ろうとし、その一環として水城を建設した、と。然し、これは真っ赤な嘘だったのです。C14年代測定法によって、時代がもっと遡ることが明らかになったからです。

水城東端部
水城東端四王寺山側 至大野城

◆C14年代測定法によって明らかになった建設年代
証拠の品は敷き粗朶です。測定の結果は基礎工の底部にあった敷き粗の枝葉を計測したところ660年±ー430年±ー240年±という三層の別々の結果を得たのです(九州歴史資料館)。なお、木樋の年代も明らかになっており、430年±ということ(九大)だそうです。つまり、白村江の戦いよりも前から建設されていたのです。
太宰府を玄界灘から遮るように築造された水城は総延長1200メートル、堰堤の底辺は80メートル、上面は10メートル、玄界灘側には幅60メートルの水濠、土量384000立方メートル、延べ人区は100万人以上と言われています。また、基礎の工法としては生の木の葉の着いた枝を敷き詰めながら積み上げる敷き粗朶工法が採られ、上部工は版築工法で固められていました。さらに、機能的には東西に城門があり出入りができ、太宰府側底部には木樋が通り、排水も巧みであったと考えられています。
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なお、この敷き粗朶の三つの年代について、一部で誤解され、卑弥呼の時代から営々と建設され補修されてきたと解説されていますが、それは当たらないようです。報告書を見ると敷き粗朶の基礎工は各年代別に積み重なる、つまり敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工+敷き粗朶工+上部工とだんだん堰堤が高くなったのではなく、いずれの敷き粗朶工も堰堤の最下部にあって、その中での上下関係にしか過ぎないということです。一般に流布する言説は、面白いところだけを強調している場合があり、気をつけなければなりません。わたくしも旧ブログの中で間違って引用していました。お詫びします。この段は九州歴史資料館で直接丁寧に説明を受けて理解し、それとともに恥ずかしい思いをしたことを白状します。
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◆「水城」は誰の命名か?
水城という名称は誰が命名したものか、いろいろな仮説が可能です。日本書紀に名付けたとありますから、一義的には大和朝廷でしょうが、何故、水城なのかが理解しにくいのです。現地でそう呼ばれていたというのが素直なようにも思いますが、実のところ、水城は水の城ではなく堀を持った長大な城壁だったのですから現地で水城であると言われていた可能性は低いようにも思うのです。宮殿出入りの城門が二箇所設置されていたのです。書紀の編者はそれらのことを知らなかった、あるいは「水城(水の城)である」と現地報告や記録にあったということでしょうか。想像が膨らみ過ぎています。建設主体が作ったのであれば、大手門とか搦手門というように城門に名前を付けると思うのですが。
ただし、現地からは「水城」と書かれた墨書土器が出土しており、奈良時代には水城と呼ばれたことは間違いないでしょう。

◆書紀編者は何故、嘘を書いたのでしょうか? 建設時代を違え、機能を間違えてまで。
実際の機能とは違うわけですから、書記編者が用途を間違っていたことは疑いありません。嘘を書いたのではなく、そのように伝わってきたということでしょうか。もしそうだとすれば、言外におれたちが作ったものではないことがばれてしまっているのですが。
白村江の戦い当時、大和朝廷がどこを根拠地に宮殿をあるいは城を築いていたか、定かではありませんが、大和盆地の南端、飛鳥の地だろうと考えられています。斉明軍はここから九州朝倉までやって来て、戦に参加せずに無傷で引き上げます。斉明軍の首脳は当然、水城を見ています。長大な堤防と眼前の水濠を見て、飛鳥の地で報告したでしょう。「見たこともない長大な堰堤と満々と水をたたえた水濠があった」と。飛鳥の里には1km以上の堰堤など、考えられないのですから。この報告者は斉明軍の中枢、中大兄皇子、藤原鎌足たちでしょう。日本書紀の編纂はその子不比等の仕事です。当然、この報告は「斉明天皇の事績」として、伝えられたでしょう、「狂心渠」として。
ところで、水城とはどういう意味でしょうか。この堰堤は城を囲う城壁です。自らがこの堰堤を水城(ミズシロ)と命名するのは何かおかしいように思います。城門には立派な名前をつけたでしょう。斉明天皇軍が白村江の戦に出兵しながら、天皇の死を契機に引き上げます。斉明軍の首脳は当然、水城を見ています。長大な堤防と眼前の水濠を見て、用途を知らずに、名称だけで推測したか、あるいは大和びとが命名したか。引き上げた斉明軍からの驚異の報告ーミズジロ!自分たちには経験のない巨大構築物、そういうことであったのかもしれません。
水城築堤を敗戦後の記事にしたのは、自分たちにとっても連合軍は脅威であったのか、あるいはまた九州に敵が上陸した(唐軍2000-4000名の九州への進駐)ことを奇貨として、現実に存在する軍事施設を己の仕事だとサラリと書いておいたのかもしれません。

いずれにしろ、この水城の建設に大和朝廷が全く関わっていないということだけは確かなようです。
2015.5.25 初稿
2016.3.17改訂

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