さて、もう一つ。表(その1項に掲載)の右蘭にはその時に発掘された瓦について、どうであったかを報告書から抜粋しています。実は今回、奈良文化財研究所紀要の2015―2018を調べていて、第186次調査で、「S D1901Aからはどの土層からも一切瓦が出土しない」という報告があることに気がついたのです。おや?と思って調べたのがこの表の右欄なのです。
「運河」が機能していた時代の土層は粗砂(流砂)が堆 . . . 本文を読む
ここまでは、わたくしも拙著『実在した倭京』(ミネルヴァ書房2021)の中で湊哲夫を支持して、運河ではあり得ないと、建設現場からの声を提示したのです。その骨子を再掲すれば、おおよそ次のようになるでしょうか。
藤原宮中枢宮殿の建設のための仮設用運河であれば、どうして工事完了まで使わなかったのか。現代であれば大規模な工事用仮設道路であろう。その機能は建設資材の搬入だけではない。廃材や残材、治具や工具 . . . 本文を読む
まずは「S D1901Aは藤原宮造営の木材を運んだ仮設運河である」という斯界の常識です。藤原宮第18次調査で初めて検出されたS D1901Aは、朱雀大路計画線の東側に沿って南北に500メートル以上検出され、それは藤原宮建設時の資材運搬のための運河であるということになっています。まずは次の表を見てください。
これは、藤原宮宮域内で大溝S D1901Aが検出された発掘調査の全次数を拾い出した表で . . . 本文を読む
更新再開!
木下正史の論理を三回に分けてお話ししましたが、その内容に齟齬はないか、ということについては、これが更新中断の理由だったのですが、なんとか理解してお話できているのではないかと思います。大丈夫、この調子で進めたいと思います。
この項を書いていて失礼のあったことに気がつきました。引用させていただいている木下正史をはじめ先輩諸先生方の敬称を略させていただいていることです。改めて、本ブログにおい . . . 本文を読む
そのわけは、ええ加減な論考を掲載するわけにはいかないからです。拙著の内容を含めて、原資料を確認しています。その中で、また新しい課題が出来し、モグラ叩きのように追いかける毎日です。少々時間をください。 . . . 本文を読む
大雑把な解説で分かりづらかったかもしれません。後ほど、改めて推敲してみようと思います。それはさておき、木下正史の「倭京都市計画説」の結論を言えば、木下正史は先行条坊の理解について正鵠を射抜けなかったのです。擦(カス)りはしたのですが。いえ、わたくし一存の評価です。
それは隣の橿原考古学研究所が進めていた飛鳥京跡の発掘調査の影響だと思うのですが。奈良文化財研究所の藤原宮跡の発掘調査と橿原考古学研 . . . 本文を読む
木下正史は1970年代発掘調査初期の考古学的発掘事実を重視しました。西方官衙や大宮土壇以北から検出される先行条坊の位置付けや出土する土器や木簡さらには生活痕跡です。まず、藤原の地が古墳時代以降、賑やかになっていくのが7世紀半ばであることを1982年の論文の中で次のように述べています。
藤原宮周辺地域の開発の歴史の中で、七世紀の後半期は著しい画期であった。独立柱建物群の造営が始まり、それは宮周 . . . 本文を読む
前項「彷徨える始発」で述べましたが、「非常識の極み」についてそのつづきをお話ししましょう。ここまでくると、少し見晴らしが良くなりますね。「天智天皇の時代までに藤原京の建設は始まった」という非常識なフレーズがヒントです。実は、この文章の「藤原京」の代わりに「先行条坊」という語彙を使えば、これは考古学的事実としても可能性があり、非常識ではなくなるのです。藤原京に「先行」しているわけですから、置き換 . . . 本文を読む
「彷徨(サマヨ)える始発」と思っているのはわたくしだけなのでしょうか? 「土器」も「新城」も時代標式にならなかった、つまり、ダメだったじゃないですか。 だから、彷徨える始発、つまりいつ建設されたの?と疑問をぶつけるんですが、こんな質問は愚問なんでしょうか。 . . . 本文を読む
西弘海の年代観に基づいた「飛鳥・藤原土器編年」の何が問題なのか、具体的に見てゆきましょう。これについては拙著(『実在した倭京・藤原京先行条坊の研究』ミネルヴァ書房2021)にしつこく書きました(166頁)から、これを読んでいただくのが良いのですが、ポイントだけでもここで説明しておきたいと思います。長くなりますが・・・ . . . 本文を読む