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「プーチン・安倍、日ロ首脳初会談でプーチンは1855年産のワインでで乾杯した」:「北方領土」問題を考える;講師・笠谷和比古氏(スケッチ&コメント)

2018-08-09 06:59:17 | スケッチ


講師・笠谷和比古氏

江嵜企画代表・Ken



講師、笠谷和比古氏、大阪学院大学法学部教授の講演会が8月4日(土)午後2時からクオレ大阪中央で開かれ楽しみにして出かけた。今年の神戸も暑いが、大阪は輪をかけて暑い。猛暑いとわず会場には大勢の笠谷ファンが詰めかけていた。「冷房をガンガンに回しております。もし寒いと思われる方は席を自由に移動願います」と事務局の方が話した。はじめ冷房機直下にいたので席を移動した。

講演「タイトル」の「北方領土」の文字にカギ括弧を付けました。千島列島全部が日本の領土としてロシアと日本の間で了解されていたのです。お手元のチラシにある地図を見てください。」と笠谷先生は口火を切った。「いわゆる「北方領土」問題は欺瞞に満ちております。」と笠谷先生は話を進めた。

「18世紀後半、ロシアが南下してくるという話は既に江戸幕府も耳にしていたようだ。」と続く。幕府の中でもロシアへの関心はあったようだ。蝦夷地開発の必要性についても意見が戦わされていたことが工藤平助『赤蝦夷風説考』に出ている。

「文化元年(1811)にロシア船ディアナ号艦長が国後島で拿捕される事件が起った。それを副艦長のリコルドと高田屋嘉兵衛との協力で平和的に解決した。「日露和親条約」は嘉永6年(1853)12月、日露交渉開始、安政元年(1855)2月に、ロシア使節、プチャーチンと日本側全権、大目付格、筒井政憲・勘定奉行、川路聖謨との間で友好的雰囲気のもとで交渉が進められ調印。「この川路をわたしたちみな気に入っていた。。。。川路は非常に聡明であった。彼はわたしたち自身を反駁する巧妙な弁論を以て知性を閃かせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなった」とゴンチャロフ「日本渡航記」にある。

1855年2月7日は後に「北方領土の日」と決められた。「樺太・千島交換条約」で「樺太はロシア、千島列島が日本だった。エトロフとウルップの間を国境と相互承認した。樺太(サハリン)は、両国民雑居で、従来の慣例通りだった。」と笠谷先生は話した。

明治8年(1875)、締結された「樺太・千島交換条約」では、「樺太はロシア領、ウルップ島以北の千島列島は日本領。全千島列島が日本領土と明記された。日本の固有の領土は「北方領土(四島)」ではない。明治38年(1905)日露戦争、ポーツマス条約が結ばれ樺太の北緯50度以南をロシアは日本に割譲した。

昭和14年(1939)、第二次世界大戦勃発、昭和16年(1941)4月、スターリン、松岡洋右外相との間で日ソ中立条約が結ばれ、領土保全・不可侵。有効期限5ケ年が決まった。ところが昭和20年(1945)2月、クリミヤ半島のヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンで密約が交わされた。対独戦後、ソ連は対日参戦。ソ連に南樺太及び千島列島割譲が決められた。同年8月8日、ソ連軍は満州侵攻、満州、樺太、千島列島を占拠した。

昭和26年(1951)9月、サンフラシスコ講和条約で日本の千島列島放棄が決まった。以降ソ連が占領支配した。昭和31年(1956)10月、日ソ共同宣言で戦争状態の終結と平和条約締結後に歯舞、色丹二島の日本への返還が、自民党政権下で決まった経緯がある。なぜ二島なのかと笠谷先生は話した。

「2013年、モスクワで安倍プーチン初会談が行はれた。プーチン大統領は1855年産のワインで乾杯した。1855年産ワインで乾杯されたとの記述は当時の新聞各紙にある。しかし、1855年が日露和親条約が結ばれた年であると記載した新聞は調べた限りどこにも見つからなかった。プーチンの深層心理はどうだったのか。」と笠谷先生は話した。

安倍プーチン会談は初会談のあと十数回開催されている。「北方領土」問題は全く進展していない。今年に入り「北方領土」をめぐりロシア国内で、米軍の軍事基地化を危惧する論調が起きている。仮説だが、と前置きして、笠谷先生は「「北方領土」返還後は「非武装地帯」化する構想」を日本が提案し領土問題解決の糸口にすることは出来ないか」と話して、1時間半の講演を終えた。(了)
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