【公式】死神紫郎ホームページ

2018年より死神改め、死神紫郎(読み:しにがみ しろう)に改名。ギター弾き歌手。

2月24日無善寺公演終了。

2011-02-26 00:31:47 | お知らせ
この日は大変不愉快なことがあった。

直接加害者本人にも文句を言ったが、
不快感は拭えない。

同じ舞台に立つものとして非常に納得がいかない。

何があったのかさらっと書こうと思ったら、
通常の「声明文」2週分のボリュームになったため、
今週と来週2回にわけてお送りする。

日曜日をお待ちあれ。

2月24日演目はエレキ弾き語り。

あまりにむかついたので何の曲をやったかあまり覚えていない。

ただ新曲の「牛は屠殺を免れない」完成版を披露した。

以上。

女子会撲滅運動

2011-02-20 00:00:00 | 声明文
女子、すなわち女の子。
おんなのこども。

言語からパッとイメージされる年齢は小学生位。
拡大解釈をしても大学生、
オマケして二十半ば位までが
女子の範疇ぎりぎりでないかと思う。

それ以降は「女性」が適している。

もう「子」ではなく、
大人として扱い、
扱われようではないか、
二十半ばを過ぎているなら、
もういい加減に。

精神世界の中に
「女の子」を同居させたまま
大人になる人も居るが、
大概はそんなことはない。

酸いも甘いも噛み締めてきた大人。
「女性」
それで良いと思う。

私は好きだな「女性」が。
「姐さん」が「淑女」が「おんな」が。

それに比して、
繁華街を群れて闊歩する
ゴスロリの女共。

彼女達が「女の子」
を自称するのは全くの似非で、
そういうものはゴスロリというかババロア。

厳しいことを言えば、
人生を生き抜いてきた逞しい淑女達が
ゴスロリの格好をして群れて歩いているだけ。
女の子は誰一人として歩いていない。

(一部に美しいゴスロリの女性が居るのも認めるが、
それも決して「女の子」ではない。

しかしゴスロリの格好をする人々は
異常にブスが多いのは何故だろうか。

皆も疑問に思わないか?

数年前に、
ゴキブリコンビナートの
Dr.エクアドルさんがコラム上で
先陣を切ってこのタブーに触れていたが、
私は物凄く共感した。)

と、ここまで見下しておいてなんだが、
私は別にゴスロリの格好を否定したいのではない。

格好なんて批判されようが、
手前の好き勝手なものを着ればよい。

じゃあ私は一体何を否定しているのか。

大人の女が
「女の子」を自称することを否定しているのだ。

あなたはもう女の子じゃない、
そう言いたいのだ。

だから私は最近の風潮にも結構苛立っている。

特に「女子会」ブーム。
やめてくれ、ほんともうって感じ。

グルメなサイトにもそういうカテゴリーがあったり、
頻繁に特集が組まれたりする位ブームらしい、女子会。

四捨五入したら三十路の
「自称」女子達による、
女子会。

女子の会。

女の子の会。

女子会、書いているだけて嫌になる、女子会。

今すぐその名称を撤回し改めよ、
なんならへりくだっても良い、
改めてください。

「婦人会」、「女の会」、
じゃあちょっと可愛く「姐きゃん集会」
「子」が付かなければ何でも良い。

兎に角、
「女子会」という表現だけはやめてほしい。
見ていて聞いていて見苦しい。

大人の女の会(漢禁制)。
見ていて聞いていて気持ちが良い。
秘密の花園って感じがして。
様々な噂話で盛り上がったり
うんうん話し込んだり、
「女」な感じがして良い。

二十歳半ばを過ぎたらもう「女の子」じゃない、
「女」なのだ。

頼むから「女子会」止めて頂きたい、
「女子会」心から。

社会的、精神的自立を志すのなら是非、「女」を。

男尊女卑を嫌うなら尚更、
男にコケにされないよう、
潰されないよう、
堂々と「女」を自称してほしい。

都合が良い時だけ男女の平等を訴えない、
都合が悪い時だけ「女の子」になりすまさない、
そういう自立した逞しく美しい「女」、
「女性」を私は敬愛しています。

心から、敬い愛しています。
そして心から、
「女子会」を滅亡を願います。

かしこ

2月11日死神+新宿ウルガ共同企画終了

2011-02-15 21:35:27 | お知らせ
雪の中、殺人予告のあった中、
新宿ウルガまでお越しいただきありがとうございました。

2月11日演目

太鼓叩き語り

1、非達磨
2、二足、影絵踏み(新曲)
3、真っ暗
4、太鼓ソロ
5、粘土遊び
6、案山子


新曲の「二足、影絵踏み」なんとか発表間に合いました。
今までの死神の曲にはないような曲調だったんじゃないかと。

独演者は一人ゆえに自らの内部で
様々な化学反応を起こさなければならない。

同じような曲ばかり作りたくなければ、
様々なものを摂取、排出し、
「自分のコピー」から脱却しなければならない。

これぞ独演のダイナミック醍醐味。

脱皮の快感。

さて、次回公演は。

2月24日(木)高円寺無力無善寺。

この日はエレキ弾き語りをやります。

飲み物代込み1000円です。

安。

是非、お越しください。

「結構です」の裏側

2011-02-13 00:00:00 | 声明文
全く新聞というものはなんと
不恰好で気の利かない代物なのだろうか。

読み物に適した掌サイズを
軽く越えた人に全く優しくない設計のため、
読んでいる内に段々とぐしゃぐしゃになってしまう。

開いた状態で落っことしたら最後、
「バラッッポサァ」
という人を小馬鹿にしたようなを
音を立てて床に散らばる。

散らばった新聞を拾い上げ、
滅茶苦茶になったページを正そうものなら、
またしてもそのデカさが邪魔をして
ますますぐちゃぐちゃになる。

それだけではない。

新聞は紙が薄すぎて一枚ずつ捲りにくく、
2ページ3ページと意思に反して捲れてしまう。

指を舐めてページを捲りたくない一心で
指先でじりじり、
ふんっと力を込めれば、
堪え性ゼロで破け、
破けたところをセロテープで補正しようものなら、
紙はもよとりセロテープまでぐちゃぐちゃなる。

私の不器用さもあるが、
まずなにより紙が薄すぎるのだ。

そう、薄すぎるものだから
うっかりお茶を溢した時など、
その何枚も下まで読めなくなるというのは
やくざな言い掛かりなので止す。

そして新聞最大の罪は、
めくる時に発生するメラッ、メラッという
気取り腐った新聞音だ。

人が折角上手に捲れたと思ったと同時に、
このメラッという新聞音が鳴る。

メラッ、メラッと新聞そのものが
インテリ気取っているような感じがして宜しくない。

お前は紙じゃないか、
木じゃないか。

紙より薄い紙じゃないか。

その分際でメラッ、メラッと
気取り腐った新聞音を鳴らすとは
薄いくせにふてえ野郎だ。

ふてえ野郎だけに
スマートさに欠けるというか、
「情報を食い過ぎて太っちゃいました」
という感じがして非常に愉快の反対。
伊集院光か、全く。

それでいちいちメラッ、メラッと音を立て、
「頭の良い僕から
最新の情報を吸収したまえ、愚民ども。」
と上から目線で情報を垂れ流してくる。

それで月々3000円?
馬鹿馬鹿しい。

私は18歳の頃数ヶ月だけ
読売新聞をとっていたのだが、
(朝日はキチガイ極左なので拒否。)
なんでもっとスマートにならないのか?
という不満から、
契約期間半ばでこの不恰好な媒体と
おさらばすることにした。

ということを含め、
先日勧誘にきた新聞屋に、
私は「結構です」と返答をした。

私、俺、自分、ぼく、あっし、あたい、小生、諸々。

2011-02-06 00:00:00 | 声明文
一人称の違和。

私は文章の場合、
私は昨日、雑穀米を食べた。

会話の場合、
俺は昨日、雑穀米を食べた。

もしくは、
自分は昨日、雑穀米を食べた。

文章では「私」、
会話では「俺」ないし「自分」。

但し、会話でもヨソ行きのときは
お行儀を良くしなければならないため「私」に戻す。

労働を共にする人や
知り合い程度の人との会話では
「自分」を使う事が多い。

親しい人との会話では
「俺」が頻出する。

行儀を良くしなければならないときは「私」。
ある程度崩して良いときは「俺」。
それが曖昧な時は中間を取って「自分」。

なんと器用にも、
「私」、「俺」、「自分」
三つもの一人称を駆使して生きている。

用途に合わせて自然に使い分ける私は、
処世術の達人かもしれない。

嗚呼、なんと薄汚いことか!

って、
そんな私も小3までは
ある1つの一人称を使っていたのだ。

それは「ぼく」。

会話も文章もヨソ行きもそうじゃないときも一律で、
「ぼく」。

何故小3までだったのか?

当時、「わたし」という一人称は
女子の専売特許だと思っていたのだが、
中学に上がった兄の作文の書き出しが、
「わたしは~」に変化していることを知り、
大人は男でも「わたし」を使うという事を学んだ。

マジックテープのズックじゃなくて
紐靴が履きたくなるお年頃、
私は「わたし」と言う方がイケてる、
格好良いと感じたと同時に、
「ぼく」はなんかダサいなーと思うようになった。

そして、その頃から
「ぼく」の他に「俺」という一人称が追加された。

いきなり「わたし」は使いにくいというか、
中学生になってから使うものという思い込みがあったため、
少しでも大人っぽい「俺」を追加した。

そして「俺」、「俺」
と言っていられない場面に多々出くわすうちに、
「ぼく」と「俺」の中間位の
「自分」という一人称を追加した。

そして小6で完全に「ぼく」を卒業した。

私の中で「ぼく」は
子供が使う一人称
(小学6年まで使用可)
という認識がある。

(ぼく、ぼく、言ってると
「だってぼくはぼくでぼくがぼくなんだもん!」
みたいなイメージが浮かんでしまい、
自らが使うとなると大変に抵抗がある。)
が、
周囲はそうでもないらしい。

大人の「ぼく」ユーザーは結構居る。

頭脳明晰な人、有能な人、
強烈な自我を持った人に多い気がする。
(同じ位、ぼく、ぼく言ってる
単に大人になれない餓鬼も多いのだが。)

少なくとも私の周りの
「ぼくユーザー」は違う。

皆揃いも揃って頭がキレ、
高い思考とセンスを持ち合わせている。

そして公私ともに裏表なく一貫して
「ぼく」を使っている。

私のように
「私」、「俺」、「自分」
の三枚舌じゃない。

じゃあ小生も一本筋を通すために
「ぼく」にシフトしようかと言ってみたところで
身に染み付いてしまった
「私」、「俺」、「自分」
の3点セットは簡単に出て行ってくれそうにない。

しかも「ぼく」という言葉にしっかり根付いたイメージ
「だってぼくはぼくでぼくがぼくなんだもん!」
が払拭できない限り、
私は「ぼく」を使うことができない。

私が私である以上、
私は「私」で「俺」で「自分」なのだという、
思考の泥沼にはまりこんで
夕飯の頂くタイミングを逃し続ける空腹の夕暮れ。