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広重「江戸百景」周辺探訪

2011-06-03 22:56:20 | Weblog

 

               江戸東京博物館「友の会」の見学会、今回は広重「江戸百景」探訪の
               浅草北周辺で、生憎の雨でしたが浅草文化観光センター前集合。

               街なかですから何組かのグループに分かれて、道先案内人と
               順次出発します、私達は2組目、案内人他6名の少人数でした。

 

                      

                          浅草金龍山  冬99景

                   絵の雷門(正式には風神雷神門)は寛政7年に
                   再建されたもの、しかしこの絵の門は広重が描いてから
                   9年後、幕末の慶応元年に焼けてしまいました。

                  * 浅草寺の風神雷神門から正面に仁王門、右手に
                   五重塔を望んだもの

                  広重は人々の喧騒を避けて、雪に覆われた静かな
                  浅草寺境内を描いている。

 

                

               山号「金龍山」はその昔金鱗の龍がここへ舞い降りてきた事に
               因んで付けられたという。

               浅草寺は江戸中で最も人気が高かった寺である。

               寺の歴史が古い。
               寺の裏に奥山と称する遊興場所があった。
               寺の北方に新吉原の遊郭があった。
               寺の北東猿若町へ芝居小屋が移ってきた。 などのためである。

 

 

                

             現在五重塔は雷門から見たら左手です、焼けて左手に移動する前の
             旧五重塔跡の碑があり、その近くに五重塔ビューポイントがありました

 

                

                   裏通りに河竹黙阿弥居住跡の碑があります
                   (幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者)

 

 

                

                     浅草神社(山社権現)

 

           

                祭神は浅草の観音様を隅田川で発見したとされる3人と
                東照大権現です。

                慶安2年に三代将軍家光が現在の浅草神社を造営したとき
                家康をここに合祀したので最初は三社 権現と言っていましたが
                明治元年に三社神明にあらため、6年に浅草神社に改称。
                毎年5月に行われる「三社祭」はこの浅草神社の祭礼です。

 

                 

                 境内の神輿倉庫の3つの網模様は観音様を発見した時の
                 3人の魚の網を表しています

 

 

                       

                        猿わか町よるの景 秋 90景

              芝居小屋の上に幕府の公許を得た興行の権利を示す櫓が見えます、
              そして左には芝居茶屋が並びます。

              江戸時代における歌舞伎芝居は、市民の風俗を乱すと考えられ、
              火事も多く、幕府から快く思われていなかった。

              天保改革の最中に、江戸の中心にあった、中村座、市村座、森田座、
              3座の中村座から出火周囲の芝居町を焼いてしまった。

              この機会を捉えて、幕府はこの3座と、人形芝居2座に対し、
              浅草寺北東の辺鄙な土地に移転するように命じた。

 

                 

              新しい土地は、江戸歌舞伎の始祖猿若勘三郎の名を取って猿若町と
              名付けられた。

              ところがこの地の南西にほとんど隣接して江戸一番の繁華街、
              浅草寺があり、さらに西北には吉原という花街を控えていて、
              この地へ移転してからの歌舞伎は衰えるどころか、かえって繁盛し、
              最盛期を迎えることとなった。

              芝居は明け六ッから暮れ六ッまでの昼間興行であったので、
              広重の描く満月に照らされた猿若町は、すでに芝居が跳ねた後の
              景色である。

              当時婦人の山の手からの芝居見物は身支度や往復時間を入れると
              3日がかりであったという。

 

 

                      

                        よし原日本堤  冬100景

             徳川家康は、荒川(隅田川の上流)の洪水から江戸市中を守るため、
             全国の大名に命じて、浅草寺の北方に13丁(1500m)の堤防を
             築かせた、堤防の土は真乳山(まつちやま)を削って運び、60余日間で
             完成させたという。

             日本中の大名が賦役して築いた堤であるので、日本堤となったという
             説もあります。

 

                

           幕府公認の遊郭吉原が風紀上の問題と、焼失したのに伴って日本堤の
           中間の南側に移転を命ぜられ、新吉原を建てたのは明暦3年(1657)。

           以来、日本堤は舟で吉原通いをする人々の通り道に変身した。
           遊客たちは、日本橋や柳橋の船宿から舟で隅田川を遡り、山谷堀で下りて
           日本堤へ上がり、徒歩か籠で新吉原へ向かった。

 

 

                

             土手には家が建ち、堀は埋め立てられ、山谷堀公園になっている

 

 

                

                      吉原のみかえり柳  

 

 

                     

                        郭中東雲   春 38景

            初期の江戸の住民は男性が圧倒的に多く女性が少なかった。
            その自然の成り行きとして男性相手の遊里が江戸の各地に発生した。

            治安上や風紀上から、幕府は元和4年(1618)まだ葭しか生えて
            いなかった原っぱ葭町へ各地の遊里を集めて公許の遊郭を作った。
            これが葭原で後にめでたい字を使って吉原と改められた。

            ところがここも次第に風紀が悪くなり、明暦の大火(1657)で焼けたのを
            機会に幕府の命令で浅草北の田圃の中へ移転することになった。
            これが新吉原です。

 
            一夜を過ごした男たちが木戸をでて大門の方へ向かって行く、彼らは
            馴染みの客らしく、花魁風の遊女が提灯に導かれて送って出てきている。
            吉原の夜明けにはこんな風景が見られたのです。

 

 

           

                     よし原大門

          郭の中には、入り口の大門から南へ伸び仲の町通りがあり、この通りの両側に
          道路が碁盤状に造られ、六つの町から成り立っていた。

 

          江戸時代中頃から江戸の桜の名所に吉原が加わりました。 大門から郭の
          中央を貫く仲の町通りに毎年3月に桜を移植することを始めたのです。
          天保年間にはその費用は150両にもなったといいますが、その効果は
          絶大なものであった。

 

          絵などで見慣れた吉原俯瞰図から想像していたよりかなり広く、京町一丁目、
          二丁目、揚屋町、角町、江戸町一丁目、二丁目の外を一周したのですが
          まわりを囲っていた濠の跡が分かるような所もありました。

 

 

                      

                        浅草田圃酉の町詣で  冬 101景

            新吉原の西南方の田圃の中に「お酉さま」で有名な「鷲神社」(おおとり)
            があって、遊女屋の窓からは手に取るように見えていた。
            遊女屋の窓越しに、田圃の畦道を熊手をかついで歩く数え切れない人々の
            行列を描いている。

            部屋の中の畳の上に熊手の形をした簪(かんざし)が置いてある。
            部屋の主が客を誘って酉の町詣でに出かけ今し方帰ってきたばかりと
            見える。 11月ともなれば、富士山は雪を被って真っ白である。

            この部屋の場所は何処だろうか、吉原で富士山が遠望できるのは
            西向きの部屋に限られるので、西の端に位置する京町1丁目から眺めと
            推測されます。

            京町には古くは「助六」の揚巻や「伊達公」の高尾といった花魁を抱えた
            三浦屋や江戸中期頃からは十文字屋などの鼓楼がありました。

            絵中の遊女の部屋から外を眺めている白猫、これは天保の改革で
            絵に遊女を描くことが禁じられていたので広重はこの白猫を遊女に見立  
            さらっと逃げたのであろう。

            白猫は遊女の飼い猫でなく、京町の遊女そのものなのでしょう。
            吉原の京町には猫を飼って、可愛がっていたことで有名な「薄雲」という
            遊女がいたといいます。

 

 

                 

                   鷲(おおとり)神社     「おとりさま」と呼ばれます

 

            

 

             江戸時代後期から最も著名なのはこの浅草の鷲神社の酉の市です。

 

 

                 

                        東禅寺 (江戸六地蔵)

              曹洞宗の東禅寺の境内に山谷の六地蔵といわれた江戸六地蔵の
              ひとつがあります。

              江戸六地蔵は、旧街道の入り口の鎮守として、また旅人の安全を
              祈念するものとして、旧街道の6ヶ所のお寺に建立されたものです。

              この地蔵は高さ2.7m、旧奥州街道入り口の4番目に当たります。

 

                    

                        春慶院  高尾太夫お墓

                  吉原で代表的な名妓で12名いたといわれ、いずれも
                  三浦屋抱えの遊女でここは二代目高尾太夫の墓です

 

 

           

                   長昌寺   (鐘ヶ淵伝説)  日蓮宗の古刹

 

                 

             境内の銅鐘は、享保5年、当時を代表する鋳物師の製作、銅鐘には
             伝説もあります。
             
             鎌倉時代後期頃、銅鐘が隅田川の洪水によって河中に沈んでしまい、
             以来銅鐘が沈んだ辺りを「鐘ヶ淵」と呼んだというものです。
             こうした伝説を「沈鐘伝説」といい、全国各地に伝えられています。

 

 

                      

                       墨田河橋場の渡かわら竈  春 37景

              江戸で最も古い橋場の渡し、絵の中で2艘の渡し船がこの渡しを
              互いに行き交っている。

              昔東国流浪中の在原業平が、日の暮れに舟で隅田川を渡ろうと
              すると、嘴と足の赤い鳥が見えたので、渡守にその名を聞いたところ
              都鳥という返事が返ってきた。 そこで詠んだ歌が  
              「なにしおはば いざこととはん都鳥、我が思う人は ありやなしやと」

              切り絵図にも「都鳥ノ名所ナリ」と場所が示してある。 さらに切り絵図の
              今戸町の横に「此辺瓦ヤクナリ」とある。

              今戸町には、瓦や瀬戸物を焼く竈がいくつも並び、そこから煙が
              立ち上っていた。 ここで焼かれた瓦を「今戸瓦」といい、瀬戸物を
              「今戸焼」ともいった。

              隅田川対岸の大堤には八代将軍吉宗が植えさせた桜があり、庶民の
              桜の名所となっていた。
              満開となった桜は、遠方からはこの絵のように、横に長い錦のように
              見えた。 遠景には紫色の筑波山がくっきり浮かんでいる。

 

 

           

               今戸あたりから隅田川を望むと対岸のスカイツリーが雨に煙り
               第一展望台も見えませんでした。

 

 

                 

                       山谷堀公園

 

 

           

                 待乳山(まつちやま)聖天

             隅田川を望む丘の上にあります、ここは以前紹介したことがあります

 

 

                

                        聖天は歓喜天です

 

                

               広重の錦絵にも江戸名所として待乳山と隅田川の景色は多い。
            
               日本堤の築造にはこの丘を削り、運んだといわれています。

 

 

           

                  紫陽花が咲く墨田公園を抜けて「姥が池」

 

 

                 

                ここより北方にあった浅茅ヶ原の一軒家で、旅人の頭を打って
                殺す鬼婆である老婆がいました。
                その娘が旅人に代わって、天井から吊した大石の下敷きになり
                死にます。  それを悲しみ、鬼婆はここにあった姥が池に入水
                したという伝説がある。

                隅田川にも通じた大池であったが、明治24年に埋め立てられた
                現在は花川戸公園に小さな庭園として名残を留めます。

 

                 

                       すぐ近くの「花川戸助六歌碑」

                   この碑は歌舞伎十八番花川戸助六にちなみ、
                「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」と
                九代目団十郎の歌が記されています。

                建立時の明治12年は団十郎演ずる助六の当たり年でもありました。
                助六の実在は不明ですが、関東大震災まで浅草清川にあった
                易行院(現足立区)に墓があります。

 

               浅草北周辺探訪は、ここで解散でした。すぐ先は浅草寺二天門です。
               3時間と少し雨中の行程は大変でしたが、この辺りは歩いて見たい
               場所でしたし、道先案内人の解説も大変楽しかった。

               江戸時代に思いを馳せての広重「江戸百景」探訪次回も楽しみです。

 

 

 

 

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