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怪談 青井の井戸 19

2021年09月28日 | 怪談 青井の井戸(全41話完結)
 父の部屋へと参りますのは、どれくらい振りでございましょうや。
 幼き頃、ばたばたと父の部屋の廊下の前を走った際、大きな音を立てて障子戸が開き、無言でわたくしを見下ろした父の姿に、ばあやの昔語りの鬼の姿を重ねて、泣きながら逃げ出したことを思い出しました。その夜、父は、躾が成っていないと母をきつくお責めになりました。ばあやが自分の不始末と間に入って泣きながら許しを乞うておりました。その時、父はわたくしに「きくの、お前の愚かが多くの者を巻き込むのだ。良く覚えておけ」とおっしゃいました。正に鬼の形相でございました。それ以降、父の部屋の前を通る事すらいたしませんでした。やむなくの時は、爪先立ちで息も止めて通ったものでございました。もっとも、父からも特に呼ばれることも無く、用向きがあらば、ばあやが伝えに来て、わたくしがその用を果たし、それをばあやが父に申し上げると言う形となりました。
 その父がわたくしをお呼びです。余程の事なのでございましょう。何事か、思いも及びませぬ。唯一思い当たる事と申せば、此の頃のわたくしのばあやへの態度を母から聞き及ばれ、注意をなさるおつもりやもしれませぬ。
 まだ陽が温かく注いでおります。ではございますが、父の部屋には陽が届かぬ故に薄暗く、障子戸の前の廊下も足裏に冷たく覚えました。わたくしは廊下に膝を突き、一端気を落ち着かせました。
「……お父様、きくのでございます……」
 落ち着いてから発した声ではございましたが、掠れて小さきものでございました。それに、幾分、震えていたようでございます。父の部屋からは何の物音も聞こえてまいりませんでした。聞こえていないとは思えませぬ。先程のばあやとのやり取りを想い出しておりました。今一度呼びかけるなどと言う粗相をし、醜く無様に平伏などするつもりはございませぬ。わたくしはそのまましばらく待ちました。
「……きくのか、入れ」
 父の声が致しました。何か用向きをされていたのだろうと思いましたが、父は何事にも勿体をお付けになる処もございます。わたくしは、その御気性は好きではございませぬ。きっと後者であろうと思い、父の声を聞いて少しく腹を立てておりました。
 さらに、青井の家の生業を、本来の姿を知ってしまった今となっては、父の態度も何か空しいものと見えました。単なる殿の子飼いの暗殺者…… それが青井の実体でございます。御勤めとは言え、褒められたものではございませぬ。わたくしにもその血が流れているのも忌まわしい事でございます。そして、それが抗えるものでは無いと言うのも、口惜しゅうものでございます。
 わたくしはそれらの思いを顔に出すことなく、障子戸を開けました。


つづく

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