しまなみニュース順風

因島のミニコミ「しまなみNews 順風」は、しまなみ海道沿いの生活情報をリリースし、地域コミュニティー構築を目指します。

公立みつぎ総合病院取材記 ②

2005-01-14 21:58:49 | 健康福祉
 公立みつぎ総合病院を取材しようと思ったきっかけは、ここの看護師から私の母に対して渡された一冊の冊子だったことは前回紹介した。
 手書きで、しかも私の母に対してだけに書かれた冊子。
 これまで母はさまざまな病院での治療、看護を受けてきた。しかし、家族の目から見て、医師、看護師からこれほど丁寧な扱いを受けたという記憶はない。これまで治療を受けてきた病院の対応が特別悪かったというわけではない。むしろ、それぞれの病院が一般的な治療、看護をしてくれたのではないかと思っている。
 では、なぜこれまでの病院と比較して公立みつぎ総合病院は、母に霎特別霑とも思える治療、看護をしてくれたのだろうか。
 私の家族は、それほど裕福でも、お金に余裕があるわけでもない。従って医師、看護師に一般的な報酬以上の治療、看護代金を支払える状況ではない。おそらく程度の差こそはあっても、因島に住んでいる人が都市部に住んでいる一部の金持ちと同様な治療、看護を受けることは出来ないだろう。しかし、私の家族がこの病院から受けた印象は、およそこれまでの病院とは比較にならないほど丁寧なものだった。
 その理由はどこにあるのだろう。
 私は、その理由を知りたくて、十二月十七日の午後から公立みつぎ総合病院の特色となっている「地域包括システム」について同病院の病院事業施設管理者 山口 昇医学博士(*以降は山口先生と略)からこのシステムの概要説明を受けることができた。
 山口先生は、このシステムの概要について説明する前に、まず公立みつぎ総合病院の簡単な沿革から説明される。
山口先生は、四〇年ほど前、この病院に赴任して来られたそうだ。当時の病院の所在地は、現在の病院施設から離れた場所にあり、その規模は、病床数四〇、スタッフ数四五、六名の小さな病院だったそうだ。その後、この病院は三年半毎に改築を続け、現在、スタッフ数では五〇〇名を越え、治療圏域についても御調町だけでなく、北は世羅町に至る地域、東は府中町、県境に至るまで地域、南は向島町に至る、治療圏域人口約七万人という規模に達している。
山口先生は、こうした病院規模の拡大に伴って、ある不思議な現象に気付かれたそうだ。
「脳卒中を例にとりますと、倒れて病院に来た時点で診断をつけ、場合によっては夜中でも手術しますよね。それで命が助かったとします。二四時間態勢の看護が始まり、その後のリハビリなどで回復してきたとします。その患者さんは、一、二ヶ月したら退院しますよね。我が家に帰れる。ここまではどこにでもあることなんです。
 その後、この患者さんは、外来へ通院してリハビリを続けるとします。本人も納得している。家族も了解している。ところが、何回か通院して来られるのですが、だんだんと病院に来なくなってくるんです。病院に来なくなると、医者はこの時点で打つ手がないんです。そして、一年ぐらいたって、寝たきりになり、大きな床ずれを作って再入院してこられるんです。頭の理解力も低下している。おしっこが出ているのに気付かないためおむつを当てている、失禁状態。この患者さんの姿を見たとき、私達は、霎あの一年前、徹夜で手術していのちを助けられて良かった霑というあの医療は何だったんだろうかと思ったわけです」
 山口先生の言われる霎あの医療霑とは、規模、程度の差こそあれ、どこにでも存在する現代医療そのものである。最前線の医療を取り入れている大学病院ですら、霎あの医療霑の例外ではない。むしろ、最前線の医療を取り入れている病院ほどこうした医療の実態に気付かない場合が多くなってくる。患者は、大学病院などが寝たきりの患者を治療してくれるとは思わないし、病院側も治療を引き受ける可能性は低い。
 山口先生は、
「いのちが助かった後のことが大事」だと言われる。
 山口先生は、公立みつぎ総合病院においても、重点的な医療の分野として、脳外科の分野、脳卒中などや、ガンの早期治療の二つを柱に据えてきたと言われる。その結果、医療については、急性期の高度医療、集中治療室などの完備、さらには顕微鏡手術もできるようになり、来年二月には手術室を拡張して心臓外科手術もできるようになるそうだ。
 山口先生は、高度医療の充実に伴って、ますます「いのちが助かった後のこと」が気になり、
「何百という患者さんの例を見ていると、これではいけない。何かがおかしい」と思われるようになってきたそうだ。
 山口先生は、
「我々は、いのちが助かった後のことを、全く考えていなかったのではないか」。そして、 さらに続けて、
「我々は、病気を診て、人を見てこなかったのではなかろうか」との思いに達したと言われる。
 私の母の場合もそうだった。ガンの告知を受け、胃ガンの摘出手術を受け、その後に再発し、さまざまな病院を点々としてきた。病院では治療についての万全が期されていたに違いない。しかし、退院後、母の病状についてわざわざ尋ねてくれる医師や看護師は皆無だったし、そのようなシステムがある医療機関があるとも思えなかった。そのため、時をおかずにガンが再発、さらには終末医療に頼らざるを得ない状況にまで追い込まれてきた。
 医療機関は、病気を治してくれるけれども、人のいのちを継続的に助けてくれる機関ではないのだ。これは常識的なことであって、誰もが不思議に思わない事実である。日本中の医療機関が、そしてこの国の国民のほぼ全てが常識だと思っている事実である。
 山口先生は、何百という患者さんを見ながら、霎私は非常に反省しました霑と打ち明けられる。その反省について山口先生は、
「ヒューマニティー、人間の生活という視点、これが私自身にも欠けていたのではないか」と言われる。
 その後、山口先生は、
「病気を治した後、患者さんが病院に来なくなったら、こっちから出かけていく。言うならば、医療の出前を開始」されたそうだ。これは今から三〇年前、昭和四九年のことで、当時は、国にそうした制度がなかった時代であり、この医療の出前は全て無料報酬で行っていたそうだ。国の制度が整備され、これらの診療に保険診療報酬が適用されるようになった昭和六三年までの一四年間、公立みつぎ総合病院では無報酬でこの霎医療の出前霑を行ってきたそうだ。
 医療の現場に霎ヒューマニティー、人間の生活という視点霑を持ち込むこと。この理想は、医療の出前を開始して二、三年間、さまざまな壁にぶつかることになる。公立みつぎ総合病院でもらった「御調町における地域包括ケアシステム ― 寝たきりゼロ作戦と保険・医療・福祉の連携 ―」によれば、当初、外来の看護師が交替で「出前医療」に携わっていたが、人間関係の希薄な在宅ケアでは、「他人に家の中を覗かれたくない」という田舎独特の心理も加わって円滑なケアを実施できなかったりと苦しい時期を経験している。しかし、「医療の社会化」、そして「待ち」の医療から「出ていく」医療への変換は、在宅ケアスタッフの専任制、昭和五四年からは「病院に専任の訪問看護師として病院保険師をおき、老人や家族との人間関係をつくり、訪問看護をおこなう」という取り組みなどで徐々に定着していくことになる。その結果、図一のグラフに見られるように、御調町における寝たきり老人の数は激減していくことになる。
 山口先生は、このグラフを私に誇らしげに見せながら、
「我々の寝たきりゼロ作戦は、こういう言葉もなかった時代、まず最初にソフトの革新からスタートしたんです。けっして、箱モノを作ってからスタートしたのではないんです。ソフトに応じて、徐々に必要な箱モノ、設備を増設していったんです。人、人間を見る医療、これこそが我々の地域包括医療であり地域包括ケアそのものなんです」と言われる。
 公立みつぎ総合病院の原点は、寝たきりゼロ作戦であり、この作戦の本質は、「家庭での病気に対する対応の仕方、考え方の革新」にあると山口先生は強調される。

「地域包括医療(ケア)とは
○ 地域に包括医療を、社会的要因を配慮しつつ継続して実践し、住民のQOL(*quality ob life=生活の質)の向上をめざすもの
○ 包括医療(ケア)とは治療(キュア)のみならず保健サービス(健康づくり)、在宅ケア、リハビリテーション、福祉・介護サービスのすべてを包含するもので、施設ケアとの連携及び住民参加のもとに生活・ノーマライゼーションを視野に入れた全人的医療(ケア)
○ 地域とは単なる Areaではなくcommunityを指す」

これは、山口先生が長年温めてこられた地域包括医療(ケア)の概念。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿