しまなみニュース順風

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ハートステーションなないろ日誌 「自由に、奔放に」

2005-11-02 01:06:22 | ハートステーションなないろ日誌
 もし、自分が当事者だったら、もっと軽いノリでこれを書けているかもしれない。スタッフになったことで、そこに制約が加わるとしたら、このなないろ日誌を継続する意味はないのかもしれない。
 人は、それぞれに思いがある。自分の経験した世界を世間に知ってもらいたいと思う自己顕示欲も、その一つだろう。人間関係は、多様性に満ちた人と人との繋がりによって変化していく。ただ、自分の自己顕示欲を表現したいがために、多様性に満ちた人と人との繋がりを即物的に描いたとしたら、その表現は自己満足だけで終わってしまう可能性があるに違いない。
 また、きっと、これを読んでいる人たちは、こんな小難しい理屈を登場させるこの日記を、疎ましく思うかもしれない。
 なぜ、巧妙なシャレをふんだんに使わないのか。読み物として楽しくなるような表現を、なぜ、もっと使わないのか。
 書き手は、常に、人間の奥底にある思想を意識して表現方法を斟酌する。なぜなら、ストレートな表現ほど、心に響き、印象に残るからに他ならない。シャレも、ユーモアも、それを演出するための手段であり、技巧に過ぎないことを理解すれば、表現者の意図は理解できるに違いない。
 これは、表現者だけが希求する希望的観測に過ぎないのだろうか。
「なないろで話したことは、ここに置いてかえる」
 過ぎ去った過去も、愚痴も、嫌味も、吐き出してしまえば開放される。開放された言葉は、跡形も残らない砂に書いた文字のように時間と共に消滅し、その言葉に秘められた想いさえ消し去られてしまうのだろうか。
 もし、記憶が、意図的に消滅させられるとすれば、人間にとってこれほどの苦痛はないに違いない。
 問題が、記憶が記録に残るということならば、どんな人間にもその恐怖はある。人は、経験したことを確実に記憶し、その魂に記憶しているからに他ならない。それを文章という形に表すか、どうかという問題は、もっと別の問題になる。なぜなら、表現とは、ゲーテの自叙伝にもあるように「真実と嘘」という問題を常に抱えているからだ。
 表現者が分かりやすい言葉を丁寧に使うのは、自分の思想をより深く読み手に理解してもらいたいからに他ならない。
 なないろでの経験は、どうあって欲しいのだろう。
 この問題は、人生の課題にも通ずる難題に違いない。しかし、原則として、人は、決して、楽しくない場所には訪れたくないものだ。その逆に、自分の記憶を誇れるものにすれば、どんな人でも、記録に留めたくなるものだ。
 道化とあざけりは明確に違う。ユーモアとからかいは明確に違う。シャレと滑稽は明確に違う。ただし、表現者としての失敗は常に意識されるものでなければならない。
 書き手としては、読み手に、表現しようとしている楽しさを味わってもらうため、その境界を理解してもらいたいと願う。もし、その表現方法に失敗があるならば、表現者は謙虚にそれを受けとめるべきだ。
 ある物書きは、「名文というのは、事故のようなものだ」と書いている。その真意は、表現者として生きるため、もし失敗を恐れて文を書かなくなれば、その使命が終わる、という意味になるだろう。使命が終わる、という意味を深く考えれば、表現者は、常に書き続けることでしか、生きる意味を感じられない、ということにはならないだろうか。
 表現者は、希求する。常に、自由に、奔放に表現したいと。

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