青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

人は何故生きる(下)

2008年08月27日 | 人生設計
人が「人らしく」生きようとする時、それが「人が何故生きるか」の答えとなるだろう。
人は「ただ単に人」としてあるのではなく、生命あるものとして生きているならば、「人らしく」あらねばなるまい。人であるまじき思いや、行いに生きる事はあってはなるまい。
ここに載せた「ユリの花」のように、「ユリの花」は「ユリの花」として懸命に生きている。


他に頼らず、他に寄りかからず、それでいて自然の営みを素直に受け入れている。
「こうされたから、ああされたから」といって恨みもせず、報復や復讐する事もなく、他をからかい、中傷し、いじめる事もなく、「金銭、名誉、地位」に捉われもしていない。
それはまさしく「神が更に神らしく、仏が更に仏らしく」勤め励むような姿である。
しかし人は、さもしい。何やかやと、欲に駆り立てられる。そして泣き、苦しみ、怒り、恨み、呪う。
こういう私たちのために、教育というものがあり、道徳というものがあり、哲学というものがあり、宗教というものがある。それらは「人が人らしく」なるためのものであったはずなのに、人は欲望を募らせる事にと取り違えている。
厳密に言えば、人の生命は自然の摂理に従っている。然れども、その生命に付随している「精神、心」は、身勝手で我侭に振舞っている。この身勝手で我侭な「精神と心」をどのように導き正していくかが、それが「人は何故生きるか」ということへの答えともなる。
それに又、この身勝手で我侭な「精神と心」をどのように導き正していくかは、一秒一刻の瞬間瞬間の行いによって決定される。即ち「一期一会」である。
だから「これだけしたから、あれだけしたから」と安穏としてよいものではない。それだけでなく、この事は「過去と未来」ともかかわりを持っている。
「過去と未来とのかかわり」といっても、「これだけした、あれだけした」ということではなく、過去の経験をどう「正しく生かす」ということにある。「未来に生かす」ということにある。
ただ「目先」の目標だけを目指せばよいというものではない。「目先の目標」だけを目指していたから、今日私達は、地球温暖化や食糧危機、物価高騰と言ったものにさいなまれているばかりでなく、原爆やミサイル、クライスター爆弾など兵器が開発されて使用されて、世界は騒がしい。
「人が人らしく生きる」ということを自覚するとき、「人が何故生きる」ということを知ると同時に、今私たちがだかえている色んな問題も氷解していくかもしれない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人は何故生きる(上) | トップ | 議員は日雇い労働者に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿