「悪の帝国、火で制す」=反米総決起集会開く―北朝鮮
今日は秋分の日。また秋のお彼岸の、中日である。
この日には墓参りや墓参する人が沢山いられる。
だが私は、余りしない。時折家内に誘われていくというように、後ろ向きになっている。
更に家内からは、「少しも仏様に参らない、お仏壇に前らない」という始末になっている。
弁解めいているが、それにはこんな理由がある。
私は亡くなった両親や先祖とは、相対した関係でいたくはない。
相対した関係ではなく、亡くなった両親や先祖を胸の中に置いておいて、その胸の中の両親や先祖と向かい合っていたいと思う。
墓参りしての供養なら、その時だけの供養でしかないだろうが、胸の中でいつも向かい合い、鳴かせまい悲しませまいと自分の行いに気を付けていくならば、一秒一刻が供養になるのではと思う。
仏さまに参らないでいるのは何故かというと、私という人間は常に「目配り気配り」ばかりしているからだ。
何か手伝うことは、手助けするみことは、役に立つことはと気配り目配りばかりしている。そのために、仏さまにお参りするのが疎かになっている。
二つ同時にすればいいのだが、障碍者であるためか、それができない。
人はみんな仕事のことなどで帳付けしながら人と話をして応対しているが、私にはそうした器用なことができないため、一つのことしかできない。
では、仏さまに参ってだけして、後の家族のことも子供のことも何もしないでいいのだろうか。
それとも仏様に参らなくとも、家族や子供の面倒や相手になってやるべきだろうか。
これをもって「教育と宗教」の連載を終わります。
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