ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか鈴木 謙介日本放送出版協会このアイテムの詳細を見る |
※引用メモ
P241
3 他者と関係することへの〈宿命〉
オンリーワンを目指す若者たち
成長する、ということについてよく言われるのは、自らが特別な存在であるという根拠のない確信を、断念していくことであるということだ。私は他のすべての人となんら変わるところのない、平凡な存在である。だから、周囲が私のことを認めないのは、別に周囲が悪いわけではない。そしてだからこそ、私たちはお互いを認め合うことができるようになる。若さゆえの過信から脱却することこそ、成長の証なのだ、と。だが、私はごく平凡な存在だ、と本人が思っているにもかかわらず、あなたには無限の才能がある、何か特別な才能をいずれ発見して、オンリーワンの存在になれる、と言われ続けている場合にはどうだろう。
ときに「失われた世代」と名指しされてしまうように、長い不況の中で、若者たちからは、単なる安定や正規の雇用を得る可能性のみならず、何ものかになるといいう可能性そのものが奪われてしまった。だが、「何が」失われたのか、という守護を欠いたこの「失われた世代」という物言いは、実際に彼らの可能性を奪ったのが誰であるのかということについて、責任の所在を隠蔽し、それらを天変地異のように ー 宿命のように失われてしまったのだと、私たちに告げる。
その剥奪のプロセスにおいて強まったのは、自らの人生を設計し、自己責任において未来を選択することが、若者たち自身に求められるという、奇妙な逆説だった。いまや子どもたちは、十三歳で無数の職業のカタログと可能性を提示され、自らの持っている能力を開発し、発揮せよと命じられる。その自己開発を怠るものには、社会からどうしょうもなくこぼれ落ちていくという宿命が待ちかまえているのだ、と脅されながら。
そうしたプレッシャーに晒された若者たちが、自らを「ありのまま」の存在として肯定して欲しい、「もともと特別なオンリーワン」であると認めて欲しいと望むようになるのは、ゆえのないことではないだろう。それを、上昇志向の欠落した「下流」と見なすか、状況の被害者だと見なすかは、たいした問題ではない。重要なのは、平凡なまま大人になりたいと望んでいる若者たちがいるのに、社会の側が特別な存在として才能を開花させることを「成長」と呼んでいるということであり、その成長イメージのミスマッチを埋めるモデルが、提示されていないということなのだ。