(ご挨拶頂く川平東京沖縄県人会長)
3月5日、那覇に続き東京は浜松町のチサンホテルで関東沖縄経営者協会並びにIT協議会友人有志の献身的な準備態勢のもと「おきなわ就活塾」の発刊記念パーティを開催頂き、多くの方より祝電、生花等々、お心づかいも頂戴し、真に有難う御座いました。
年度末をひかえて何かとご多忙な時期にもかかわらず、沖縄での200名余に続き東京でも川平県人会長、吉川県事務所長、稲村元郵政審議官、山路同窓会長、勝方早大教授、仲村前日産ディーゼル社長他150名を超えた多くの皆様のご出席と暖かいお言葉を頂き、御蔭様で盛会裡に執り行うことが出来、身に余る光栄と感謝申しあげる次第です。
2カ所での記念会を通じて、沖縄の抱える高失業率や雇用促進等の問題へのご関心の大きさを感じることが出来ました。これまでの経験を踏まえ、県若年者の失業率の改善、県外就職促進に微力ながら貢献出来たらと思っています。
なお、この度は初めての経験ゆえ不行き届きの点、多々ありましたこと深くお詫び申しあげます。
本来、直接拝眉のうえ、御礼申しあげるべきところではございますがNET、Blog上でのお礼のご挨拶、失礼をお許し下さい。
3月5日、那覇に続き東京は浜松町のチサンホテルで関東沖縄経営者協会並びにIT協議会友人有志の献身的な準備態勢のもと「おきなわ就活塾」の発刊記念パーティを開催頂き、多くの方より祝電、生花等々、お心づかいも頂戴し、真に有難う御座いました。
年度末をひかえて何かとご多忙な時期にもかかわらず、沖縄での200名余に続き東京でも川平県人会長、吉川県事務所長、稲村元郵政審議官、山路同窓会長、勝方早大教授、仲村前日産ディーゼル社長他150名を超えた多くの皆様のご出席と暖かいお言葉を頂き、御蔭様で盛会裡に執り行うことが出来、身に余る光栄と感謝申しあげる次第です。
2カ所での記念会を通じて、沖縄の抱える高失業率や雇用促進等の問題へのご関心の大きさを感じることが出来ました。これまでの経験を踏まえ、県若年者の失業率の改善、県外就職促進に微力ながら貢献出来たらと思っています。
なお、この度は初めての経験ゆえ不行き届きの点、多々ありましたこと深くお詫び申しあげます。
本来、直接拝眉のうえ、御礼申しあげるべきところではございますがNET、Blog上でのお礼のご挨拶、失礼をお許し下さい。
ところで余計なことを一つ(多分すでに気がついているか指摘されているとは思いますが)書きます。169ページ「会議は踊る、されど進まず」で有名なあの第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議を仕切ったオーストリア宰相メッテルニヒが行ったのか}についてですが第一次世界大戦をナポレオン戦争に、ベルサイユ講和会議をウィーン会議に訂正した方がいいかと思います。
内容も特に社長のひととなりについては、終戦時の時代背景もさりながら、ただ感心して読みました。こういうひととなりから、社長の人格が生まれ、NASを作り上げた意欲がわかりました。
妻も一気に読み、やはり社長さんは偉いとさかんに感心していました。
沖縄については、皆いわゆる人のいい人で、平和を愛する人達なのだと認識するとともに、だから、弱い物足りない一面もあるのだなと改めて思いました。しかし、この良さが崩されていくのは悲しいと思います。沖縄をリードする方たちは、このやさしい平和を愛する県民性を大切にしていただきたいと感じました。
戦中・戦後史の中でしか沖縄を見てこなかったのかと、重田さんの趣旨(就活)とはかけ離れているかも知れませんが、改めて反省するところです。
パーティで沖縄の皆さんの雰囲気に接し、重田さんの個性だとばかり思っていたことが、意外に沖縄の人びと共通の性格なのかもしれないと、思うひと時でした。
4月8日~13日。さいたま市の公共施設「氷川の杜文化館」で沖縄の人間国宝展をやります。そのときに
沖縄の書籍コーナーを設けますので、10冊送っていただけますか? 8日の午前中に南風まで送っていただけると嬉しいです。ぜひ見に来てください。重田さんのジョキングコースにあります。
一つは彼の会社が沖縄の高校生の職場実習を十年間、毎年五人ほど引き受けてきたということです。会社本来の利益追求だけではなく、社会的役割を重視する、という彼の考え方は、大学時代学生運動が烈しい中で揉まれてきた者としては、とてもよく共感できることです。
もう一つは何のために会社を作ったかと自問して、「組織を作ることが目的だった」と答えている点です。
組織とはよい出会いを作る場であり、社員と顧客、競争相手の同業の社長たちとの出会いを可能にする場である、また会社経営とは、競争市場のもとで顧客満足と構成員の自己実現をめざしてバランスをはかる作業だとも言っています。
彼は文学部の西洋史専攻の卒業生です。いわゆる文科系の卒業生として、今をときめくIT産業のベンチャービジネスの世界で会社を作ってやっていくということが、ちょっと理解できませんでした。でも「組織を作ることが目的だった」という彼の答えで少し納得がいきました。その点で彼の能力が遺憾なく発揮されたのでしょう。
西洋史専攻クラスはおよそ五十人、ほぼ男女同数で一クラスしかないので、一年から四年まで同クラスで過ごします。六十年安保闘争の翌年に入学したので、学生運動が華やかな時代でした。でもまだ黒覆面にゲバ棒の時代ではなく、クラスの中で討論を行うという時代でした。クラスの中にも核マル派や民青の学生がいて、頻繁にクラス討論が開かれていました。
どちらもマルクス主義の革命思想ですから、現代の社会矛盾に対して、君はどういう態度をとるのか、と論争をふっかけられます。今だったら自分たちは親から金をもらって勉強中の身だから、今は社会の仕組みと歴史の流れをしっかり勉強するべきで、革命運動なんてとんでもない、と答えれば済むことです。でも当時は自信をもってそう答える程勉強していなかったので身を守ることはなかなか苦しいことだったのです。
そんな中で重田君は学生運動家達と平然と議論して、一歩も引きませんでした。彼が防波堤になってくれた、彼のお蔭で助かったという思いがあります。
彼との最初の出会いは、一年上のクラスがやってくれたオリエンテーションと新入生歓迎の会でした。会が終って帰ろうとしたとき、彼に声をかけられたのです。「君、すまないが七十円貸してくれないか、帰りの電車賃が無いんだ」というのです。初対面の人間にそう語りかける彼は、実に平然としていました。この点はどんな場でも動揺せずに対応出来るという彼の特徴が良く現れています。彼には人の前で自分が良く評価されたいというような気持ちが全く無い、人の前で恥をかくことを何とも思わない、自己を過大評価しない、人に対していつも自然体でいられる、これは彼の学生時代からの特徴です。
彼は私の結婚式の司会をやってくれました。打ち合わせの時、当時彼自身、いろいろ大変な状況にありましたが、その状況と自分の失敗をくわしく語ってくれました。とても面白い話でしたが、良くここまで何でも話せるものと感心しました。彼はどんな状況でもめげないのです。
彼はクラスの女性にもいろいろ声をかけていましたし、文学部内に何人も女友達、知り合いがいました。何度声をかけて断られても全くめげないというのが彼の強みです。
彼の言葉で印象に残っている言葉があります。「人には会うべし、場所には行くべし」です。これは言うは易く行なうは難い言葉です。人生に対しても人に対してもいつも積極的な彼にぴったりの言葉なのでしょう。彼は昔に比べてにこやかなとてもいい顔をしています。顔は男の履歴書といいます。その意味で彼は実にいい人生を歩いてきたのだと思います。
同級生がいい人生を送ってきたことはとても嬉しいことです。今後とも元気でいつも平然として御活躍するよう祈っています。