漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




 一通りは読んだが、読み込めたという気はしていない。途中で道に迷い、それでも先へと読み進み、全体の2/3を過ぎたあたりでなんとなく全体の手がかりのようなものがまた見えてきた。そこで本来なら最初に戻って読みなおすべきだったのだろうが、しないまま最後まで読みきった。したがって、物語の中に流れる時間や人物の混乱がきちんと腑に落ちきってはいないというのが正直なところだ。従って、以下の感想もやや覚束ないところがあるが、とりあえず初読時の感想ということで。
 この時間的にも空間的にも人物的にも混乱をきたしている混沌とした物語をすっきりと整理して理解することは、なかなか簡単ではなさそうである。しかも、そこにメタの要素までが入り込んでいる。そのメタの部分をきれいに分けて取り出せれば、多分ある程度はすっきりするのだろうが、それもなかなか難しい。
 この小説をもっともシンプルに説明するなら、ムディート(=ウンベルト ペニャローサなのだが、実はこのあたりもやや微妙なところがある)の、上院議員ドン・ヘロニモの妻イネスに対する愛の物語、ということになると思う。つまりこれが縦軸。そこに、イネスの産み落とした奇形の息子〈ボーイ〉の物語が横軸として重なるが、物語を複雑にしているのは、この二つの軸は、どちらも少し「ぶれている」ということ。多分、縦軸の騙りが横軸の矛盾を誘発することによって生まれる「ぶれ」。そうしたぶれが生み出す、見ようによってはいくつもの縦軸と横軸のある物語の中を、「夜のみだらな鳥」、例えるなら欲望が生み出す妄想のようなものが、自在に飛び交っているように思える。そしてその鳥の描き出す軌跡が、物語を曖昧で複雑な文脈へと、つまり迷宮へと導く。
 読みながら、語り口や時間軸の移動の仕方はスティーヴ・エリクソンの初期作を思い出させたが、全体の構造としては、夢野久作の「ドグラ・マグラ」を連想させた。しかし、同じように閉じられた時間の中で反復される悪夢としての物語でありながら、「ドグラ・マグラ」は、物語の最後で主人公が「これは胎児の夢なのだ」と考えるが、そうした円環構造を持つ閉じた悪夢の物語として理解し得ることに対して、この「夜のみだらな鳥」という物語は、体中の穴という穴を縫い塞がれてしまったインブンチェという怪物と(精神的に、物語の最後ではある意味では肉体的にも)一体化してしまった、作家でもあるウンベルト ペニャローサの妄想、何度も形を変えて繰り返される自家中毒的に反芻される悪夢の物語とも読める。そうでなければ、物語の最後で袋の中に閉じ込められたムディートを含め、インブチェのイメージが何度も繰り返される理由がうまく説明できないのではないかと思う。「ドグラ・マグラ」と大きく違うところは、こちらの方が能動的・有機的であるという点である。
 と、多少無茶かもしれないとは思うが、「ドグラ・マグラ」と「夜のみだらな鳥」を比較して、物語の構造についてちょっとした分析をしてみたけれど、この物語の本当の楽しみ方は、そうしたところよりも、魔術的な語りの心地よさや、猥雑なエピソードの氾濫を楽しむことにあるのだと思う。特に、奇形の〈ボーイ〉が自らを奇形だと感じることのないようにと、様々な奇形の人物ばかりを集めて作り上げたまるでテーマパークのような場所「リコンナーダ」の様子、特に臓器製造所と化したウンベルトのエピソードや、修道院での「おかあさんごっこ」のエピソードなどは強烈で、夢に出てきそうである。また、修道院での賭けドッグレースのエピソード、老婆たちが追い剥ぎに変わってゆくエピソードなども印象に強く残る。
 あとひとつ気になったのは、要所要所で出てくる「黄色い牝犬」。これが何を象徴しているのか、いまひとつ汲み取れなかった。「黒い犬」といえば、黒い犬の姿をした不吉な妖精を指すことがあると同時に、うつ病の象徴だったりするが、黄色い犬も、例えば差別の象徴とか、何かを象徴していたりするのだろうか。気になったのは途中からなので、再読すれば分かるような気もするのだけれど……。



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