漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

たんぽぽのお酒

2018年10月02日 | 読書録

「たんぽぽのお酒」 レイ・ブラッドベリ著 北山克彦訳
文学のおくりもの 晶文社刊

を読む。

 長らく積んでいた本ですが、ようやく読みました。正直、あまり期待もしていなかったのですが、面白かったし、読んで良かったです。この本に関して言えば、今がちょうど読み時だったのかもしれません。
 この本に書かれているのは、少年の頃、この本について言えば1928年の「あの夏」、を永遠にしたいという強い渇望にも似た思いです。ブラッドベリの作品に流れるノスタルジーを何かで割ることなく、そのままストレートな(たんぽぽのお酒という)原酒として出したもの、という感じがしました。長編小説ですが、短いエピソードの寄せ集めで構成されたひと夏の物語で、一応主人公はおそらくブラッドベリ自身を投影したダグラスということになるのでしょうが、実際のところは彼の住むアメリカの片田舎の小さな町とそこに住む住人たち、何よりもそのすべてが確かにあったあの夏のあの場所に違いありません。
 物語は、夏の最初の日の早朝、町でいちばん高い塔の上から夏の始まりを告げるシンフォニーを指揮するダグラスのシーンから始まり、その三ヶ月後の夕刻に、同じ場所で夏の終わりを告げて指揮棒を下ろすシーンで終わります。そのひと夏に、町ではささやかではあるけれどもさまざまなことが起こり、ほんの少しダグラスは大人になってゆきます。しかしそれは、いわゆる少年の成長物語というのとは少し違っています。ダグラスがその夏に向き合うことになったもの、それは「幸福な少年時代はいつか終わり、やがて必ず死がやってくる」という現実です。誰にでも、子供の頃にその事実に気がついて、怖くなった経験はあると思います。実際、ダグラスはその事実から目をそらそうとする余り、病気になってしまい、物語の終わりの方で高熱を出して死の縁を彷徨うという体験をします。彼はその死との戦いから生還するのですが、彼を救ったのは、ある男が彼のために紡いだホラ話、そう、ファンタジーでした。いかにもブラッドベリらしくはありませんか?
 また、たとえばこの小説の主題のひとつは、ダグラスの思索の中のこんな場面に述べられています。
 ……どこかに、かつてなにかの本で読んだことだが、これまで話されたすべての話し、これまでに歌われたすべての歌がいまだに生きていて、振動しながら宇宙に出てきており、もしケンタウロスの星座まで行けるものならば、ジョージ・ワシントンが寝言を言っているのや、シーザーが背中にナイフを突き立てられて驚くところを聞くことだってできるのだそうだ。音についてはそのくらいにして、それでは光はどうだろう?あらゆるものは、ひとたび見られたとなると、そのまま死に絶えたりはしないんだ。それはありえないことだ。とすれば、世界を探せば、きっとどこかに、おそらくは花粉に焼かれた蜜蜂が、光を琥珀色の活液として蓄えている、蜜のしたたる幾層もの箱からなる蜜蜂の巣に、あるいは正午のとんぼの、宝石をちりばめた頭蓋骨の三万個のレンズのなかに、あらゆる年の一年間のすべての色彩と光景とがみつかるかもしれない。あるいは、このたんぽぽのお酒のたった一滴を顕微鏡の下に注げば、おそらく七月四日の独立記念日の世界全部が花火となって飛び散り、ベスビアス火山の爆発のように、降り注ぐことだろう。これはたぶん信じなければならないことなのだ。……
 
 この物語の中には、数多くの老人たちが登場します。それぞれ魅力的な人物で、それぞれが忘れ難い言葉を残します。例えば、南北戦争で活躍したという老人フリーリー大佐が、勝った記憶について尋ねるダグラスに語る、こんな言葉がありました。
「わしはいつだろうと、どこだろうと、だれかが勝ったなどという記憶はないね。戦争は勝つものじゃないんだ、チャーリー。いつだって敗けるだけで、最後に敗けたほうが降参するのだよ。わしの覚えていることといえばたくさんの敗北と悲しみだけで、よかった記憶は終戦のほかにはなにもない」

 ブラッドベリといえば短編作家というイメージがあって、あまり長編に良い作品がないという印象があります。「華氏451」は中編扱いが普通らしいので、後はといえば「何かが道をやってくる」が比較的評価されているくらいでしょうか。けれども、個人的な感想を言わせて頂ければ、「何かが道をやってくる」はそのプロトタイプである「黒い観覧車」の饒舌な劣化版のように思えます。「火星年代記」や「刺青の男」などがそうですが、ブラッドベリには、短編連作による長編や、あるいは本作のような、エピソードの積み重ねによる長編の方が向いているような気がします。

 さて、本を最後までめくり終え、奥付を見ると、1985年7月20日発行とあります。初版が1971年で、この本は44刷。
 44刷!
 今の外文の状況を思うと何だか隔世の感がありますが、ともかく新刊書で買ってからずっと積んでいた本なので、三十年をゆうに超えるだけの時間、積んでいたことになります。読みたくなかったから読まなかった訳ではなく、むしろその逆で、ここぞという時に読もうと、当時の自分は読むのを我慢し、その結果、読む時期を逸してしまったのです。
 十代半ばの当時、一年か二年ほどのあいだ、ブラッドベリに結構はまっていた時期があって、早川と創元から出ていた文庫は全部読みあさりました。で、この本は文庫ばかりの自分のブラッドベリのコレクションの中で唯一のハードカバーとして購入したのですが、評価が高いということを知っていたし、すぐに読むのが勿体無いような気がして、「今日こそこの本を読む日だ」と感じる時まで置いておこうと、そんな感じの半ば本を神格化してしまったかのような特別感にとらわれて敢えて読まなかったんだったと思います(馬鹿ですね)。多分、その頃に読んだ川又千秋さんの「夢の言葉・言葉の夢」の影響もあった気がします(この評論集は、その文学青年然とした感傷性がとても心に響く、まるでエッセイのようなユニークな評論集でした)。けれども、ある時期に読書の傾向がやや変わってくると、突然ブラッドベリ作品をあまり読む気になれなくなって(新しめのブラッドベリ作品が、ややマンネリに感じ始めたせいもあります)、この本もそのまま本棚の隅に取り残されたままになってしまいました。何度か読もうかとも思ったのですが、どうも上手くのれなくて、ということを繰り返して、気が付くと数十年が経ったというわけです。ブラッドベリという作家は、十代の早いうちに読むのがベストという作家のような気がするし、もう読まないかもなあと思っていましたが、今度参加する読書会でブラッドベリをやるというので、これが最後の機会かもと、一念発起して読むことにしたのです。
 「たんぽぽのお酒」をようやく読み終えることができて、何だかブラッドベリにやっとお別れをきちんと言えるような、そんな不思議な気分になりました。この一冊を読んでないことが、ずっと心の片隅に棘のように残っていたということですね。
 ブラッドベリの本はもちろんですが、若い頃に買った本の一冊一冊は、手に取るとその本を買った時の記憶とか読んだ時の気持ちだとか、部屋の様子だとかが思い出されます。それこそが、確かにそんな、「たんぽぽのお酒」の一杯のようなものなのだということなのでしょう。

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