漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

《ミッドナイトランド》/ エンドレスサマー/ 10

2009年06月14日 | ミッドナイトランド
 初日の研修が終り、閉塞感のある地下書庫から這い出すと、図書館の開館時間はとっくに過ぎていて、館内にはまだ一部に明かりが灯ってはいたが、数人の職員がいるだけで人の気配も少なく、がらんとしていた。そして時折、本を重ねるパタリパタリという音や、交し合う話し声が小さく響いた。時計を見ると、既に第十九時を回っていた。
 「少し遅くなってしまいましたね。疲れなかったですか?」オルラは言った。
 「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」僕は言った。「あっという間に時間が経ってしまったような気がします」
 「それはあなたが熱心だったからだわ。飲み込みも早いし、教えがいがありますよ。あなたはきっと、良い書庫担当司書になると思います」
 オルラは微笑んだ。僕も微笑み、そこで改めてオルラを見詰めた。オルラは三十代後半の女性で、どこか地味な印象は受けるものの、頬がとても滑らかで、随分と若く見えた。彼女は、言うべきことははっきりと言うのだが、人の目をしっかりと見詰めて話すのは苦手なのか、それともただの癖なのか、常に目がどこかに泳いでいた。
 「そう言っていただけると、嬉しいです。ぜひそうなりたいと思います」僕は言った。
 図書館を出たのはそれから三十分ほどしてからだった。オルラを含め、数人の職員と暫く雑談を交わしていたのだ。やがて僕たちは揃って図書館を出て、門のところで別れた。
 彼らと別れた後、僕はその足で《水甕通り》へと向かった。《水甕通り》は『瑪瑙市』の繁華街の外れにある石畳の曲がりくねった通りで、湧き水を汲める場所があることから、そう呼ばれていた。そこには幼馴染みが経営している店があって、僕は夕食がてら、週に五度ほど――要するにほぼ毎日――そこに通い詰めていた。
 古い石造りの家が立ち並ぶ通りを、濡れたように見える滑らかな石畳を踏みながら歩いた。それほどの道幅もない裏通りだが、行き交う人の数は多く、それを両側に立ち並ぶ家の壁から突き出した様々な形の街灯からの様々な色彩の光が照らし出している。いや、照らし出すというよりも、さらに陰影を深くしているというべきかもしれない。というのは、光は明々と辺りを照らし出すといった光ではなく、様々な色彩で浮かび上がらせるといった印象だったからだ。遠くに、母親らしき女性に手を引かれて歩いて行く女の子の影が見えたが、それもまるで影絵のようだった。
 僕は《水甕通り》の中ほどにある店の、青い灯が埋め込まれた重い扉を押した。扉には《眠りの樹》と書かれた木製のネームプレートも打ち付けられている。それが店名なのだ。
 中から賑やかな音と美味しそうな香りが漏れてきた。店に入って見渡すと、それほど狭くもない店内に、客は他には二人ほどしかいない。どちらも知った顔だ。客が少ないのは、まだ時間が多少早いせいもあるに違いない。僕を見つけると、すぐに店の主人でもある友人のガラドが、明るい声で「おお、いらっしゃい」と声をかけてきた。僕は軽く手を挙げて、「飯を食いに来たよ」と言いながらいつもの二人用の席についた。
 「何にしましょう?」ガラドがカウンターの向こうからこちらに向けて声をかけてきた。
 「ビールを貰いたいね。今日は喉が渇いたよ。それから、魚の料理を何か」僕は言った。
 「ああ、分かった。じゃあ、《筒魚》のフライはどう?」
 「いいよ、それで」
 「はい。じゃあ、ビールを持ってゆくよ」
 ガラドはジョッキに注いだビールを手にカウンターの向こうから現れた。そしてビールをテーブルに置きながら、「今日はまだ二人とも来てないよ」と言った。
 「まだ時間が早いからね。それに、別に約束をしているわけでもないし、来ないなら来ないでもいいよ」僕は言った。
 「またそんな言い方をする。なんだか冷たい言い方だよね。何かあったわけじゃないんだよね?」
 「別に何もないよ」
 「そう。まあ、ディールは昔からそんな感じか。珍しくもない」ガラドは笑った。「で、今日からだっけ?書庫での仕事」
 「そう」
 「で、どうだった?」
 「うん、まあ色々と大変そうだけどね。面白かったよ」
 「そう。ずっと楽しみにしていたものね。昔から。私には分からないけどさ」
 僕は微笑んだ。「変な趣味なんだよ。まあ、それは認めるよ」
 「まあ、でもそうして好きなものがちゃんとはっきりしているというのはいいことだよ。羨ましいと言っていいくらいだよね。私なんて、無趣味だからさ。本当に。ま、じゃあとりあえず料理を作ってくるから、ちょっとビールを飲んでてよ」ガラドはそう言って、カウンターの向こうに入っていった。