漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



次第に、僕はギターに夢中になってゆきました。夜は、相変わらず僕はひとりでしたが、以前ほど寂しいとは感じなくなっていました。妖精たちもいたし、ギターもあったからです。ギターを弾いていると、ときどき、その音が、妖精達の言葉のように感じることもありました。そんな時には、僕は妖精たちの声帯を手に入れたのだと、思ったものです」

 イプシロンは、そこまで話して、ちょっと眩しそうに眼を細めた。
 それから、続けた。

 「初めて母の店でギターを演奏した時のことは、忘れられません。
 僕が十四歳の時でした。
 その日、僕は七時に店に来るようにと母に言われていました。それで、約束通りギターを持って、七時ちょうどに店に行きました。店に入ると、母は僕を店の端の席に案内してくれました。その時間には、まだ店には客も少なくて、どことなく閑散とした空気が漂っていました。席に座ってしばらくした時、母が食事を運んできてくれました。僕はゆっくりと食事をして、その後はただ所載無くぼんやりと座っていました。
 店は、八時を過ぎてから、次第に賑わい始めました。けれども、大半は見知った顔で、その中に混じって、観光客の姿があるといった具合でした。島の皆が、僕の演奏を聞きに来てくれたのだと、僕は思いました。母が、あちらこちらに声をかけてくれたのです。
 九時になった時、母は僕を呼び、店の片隅に作った小さなスペースに置いた椅子に座るように言いました。僕はギターを持って、言われるままにその場所に行き、ギターをケースから取り出して、抱えました。皆の顔が一斉にこちらを向きました。普通なら、緊張するのでしょうが、不思議なことに、全く平気でした。僕はギターを抱いている時は、緊張しないようなのです。抱えているギターが、僕の部屋のような気がするからでしょう。
 僕が最初に演奏したのは、『沈黙の島を離れて』という、この島の民謡でした。恋人を残して新しい場所に旅立って行く男の歌ですが、僕は歌は苦手だったので、ただ演奏をしただけです。ですが、代わりに、できる限りの情感を込めて演奏するように努力しました。
 演奏が終わった後、大きな喝采を受けました。あんな経験は、それまでにしたことがありませんでした」

 イプシロンは口を閉じた。そして、何か不思議なものでも見るかのように、斜めに空を仰いだ。私もつられて、そちらの方を見たが、特に何も見えなかった。
 イプシロンは暫くそうしていたが、また、唐突に話し始めた。

 「僕は、頭が少し足りないんだと思います」とイプシロンは言った。
 「だから、そんな風に僕が皆を喜ばせたというのが、とても嬉しかったんです。僕は嬉しくて、続いて『静寂の海の娘』を演奏しました。愉しくて、それからは夢中で何曲も演奏しました。お客さんたちも、僕の演奏する曲に合わせて歌を歌ってくれたりして、本当に幸せな時間でした。演奏しながら、僕はちらりと母の方を見ました。母は、不思議な表情で、微笑みながら、僕をじっと見詰めていました。僕はなぜかその顔をじっと見ていられなくて、すぐに視線をギターに戻して、さらに数曲、演奏しました。きっと、照れくさかったんだと思います。
 演奏が終わった後、皆が口々に、『イプシロン、驚いた、君には才能がある。君はギターでやってゆけるよ』と褒め称えてくれました。僕は、生まれて初めて、自分が少し誇らしく思えました」

 イプシロンは、少し言葉を切った。けれど、すぐにまた話し始めた。

 「その翌日のことです。僕はいつものようにあの丘にたった一人で座っていました。そして、前日の夜のことを思い出して、幸せな気持ちになっていました。見下ろすと、母の働いているレストランが見えます。あそこで、昨日自分が演奏したことが、まるで嘘のように思えました。けれども、確かに本当のことなのです。そのうえ、これからもあそこで演奏させてもらえることにさえ、なったのです。
 どのくらいそうしてうっとりと眼下の町を眺めていたのか、わかりません。けれど、ふと我に返って、そういえば妖精達のことをずっと気にしていなかったと思いました。そのことを思い出すと、何だか僕は自分がとても酷い事をしたような気になって、慌てて辺りを見渡しました。すると、妖精達はきちんといました。けれども、何だかグリーンとレッドの様子がおかしいのです。どこか、焦点が定まらないようで、互いにもつれるように、螺旋を描きながら飛んでいます。どうしたんだろう、と僕は手を伸ばしました。その時です。
 グリーンとレッドが、ふらりとその軌道を失い、互いに衝突しました。一瞬のことで、何が起こったのか、理解するまでには時間がかかりました。けれども、その衝突のあと、辺りにはグリーンもレッドもいなくて、飛んでいるのは、ブルーと、そして、黄色い光のイエローだけだったのです」

 イプシロンは口を閉ざした。
 私は言った。「なるほど、それでグリーンとレッドがイエローと同じだと言ったんですね」
 イプシロンは頷いた。「グリーンとレッドが衝突して、融合し、イエローになったんです」
 「それで」私は言った。「今、あなたにはブルーとイエローの姿が見えているんですね」
 「そうです」イプシロンは言った。「もう僕にはグリーンやレッドの姿は見えません。見えるのは、ブルーとイエローの輝きだけです。その事実を、最初は認めたくありませんでした。けれども、もう取り返しがつきません。グリーンとレッドは融合して、イエローになってしまった。もう分かつことは不可能なんです。
 後になって、こんなことになったのは、もしかしたら僕が妖精たちを丸一日、すっかり忘れてしまっていたからかもしれないと思いました。他に原因は、思いつかなかったからです。だから、こうして、僕はブルーとイエローの相手を、毎日、少しづつはするようにしているのです。もし今度妖精達を一日中忘れているような事があったら、次はきっとブルーとイエローが融合して、何も見えなくなってしまうに違いないと思うんです」
 私は、何も言えずに、黙っていた。
 イプシロンは、呟くように言った。「僕は、そうなるのが、怖いんです」
 私は彼の顔を見た。彼は、私を見ていなかった。彼は、海のずっと向こうの方を見ていた。私も彼に習って、海の方を見た。私は思った。この青年は、決して足りないわけではないのだろう。ただ……。そこまで考えて、けれども次の言葉が出てこなかった。心の中では、理解できるのだが、言葉としては出てはこないのだ。
 そうして二人でしばらくはじっと黙ったまま海を見ていたが、やがてイプシロンは立ち上がった。
 「そろそろ行かなきゃ」イプシロンは言った。「話が出来て、愉しかった」
 「私も愉しかったです。いい話を聞かせてもらえて、嬉しかった」
 「そう?」彼は言った。そして自転車に跨った。
 「僕は母のレストランで、今でも演奏しているんです。母は、今では店を任されてるんです。よかったら、食事がてら、夜にでも演奏を聞きに来てください」
 「絶対に伺います」私は言った。「演奏は、今日も?」
 「今日はやらない。でも、明日にはやります」
 「じゃあ、明日」私は言った。「楽しみにしてます」
 「待ってます」イプシロンは言った。そして、手を振って、振り向きもせず、去っていった。

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