Vive le Canada! Vive le Quebec!

英語系カナダ人、フランス語系ケベック人、そして移民たちの間の共存・共栄・葛藤・相克生活で学んだこと。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

サザエさんはありえない

2009年06月03日 | Weblog
サザエさんの家には時々強盗が入った。確かに何度か入ったところを見たように思う。学校で議論する。いくらなんでもこんなに泥棒が入るであろうか?家の近所では犯罪の心配などしたことがない。そういう時代だったのだ。

サザエさんを見ていたのはいつの頃までだっただろう?私はもう何年もサザエさんを見たことがない。<海は広いな大きいな、じゃじゃじゃんうみ!じゃじゃじゃんうみ!>というおかしな歌もまぼろしのように聞こえてくる。

私は海外生活で犯罪の怖さをふるえあがるほど感じてしまった。午前2時に私の寝室のすぐ隣にまで侵入し、あいにくぬすむにあたいするものがなにもないと悟って帰っていったどこだかの男性、オペラ座の怪人ならぬテュイルリーの怪女、ボローニャの夫婦ぬすっと、マギル大学駅前の背広を着た詐欺師おじさん、トロントへ研究旅行に行くとかいうマイク・ジョンソンを名乗る騙り贋学者。

ひとが、ひとを恐れずに暮らせたらいいですね!そう言うと、平和を愛するマウリッツィオは深く頷き、微笑んでくれた。

ベルリングエルとマルシェそれにユー

2009年06月02日 | Weblog
曽野綾子氏はカトリック界の大物である。このひとはどこだったかで一度も社会主義に心惹かれなかったことを神に感謝する、というようなことを書いておられた。

それにしても上流といえるほどの出身で、教会までついているとなれば社会主義やら共産主義やらに心惹かれないのももっともなことである。(上流出身で共産主義者になったひとは数多いるけれども。)

私は政治系団体のメンバーシップをもったことはいちどもなく、もう全共闘の炎も消え失せ、スターリンも毛沢東も死んでしまった時代に成長したのである。教皇はパウロ6世であったが私はこの方が亡くなったときはじめてその名を聞いた。次いで登位されたヨハネ・パウロ1世。この方を私は歴代教皇の中でもっとも尊敬している。

当時、公立学校の先生方には反共あるいは共産シンパをかなり露骨に表現するひとたちがいた。私は地元の寺社を熱心に回り、心を込めて祈り、読経を楽しみ、歴代天皇のお名前を暗誦し、後醍醐帝の御苦難に涙するきわめて復古的心情をもっていたが、軽薄の象徴たるアメリカをひどく嫌っていて反米的言辞を弄していたから、一部の左派教師に仲間と思われていたらしい。

ああ、しかし!いっしょくたんにしてはいけない。たとえ名前が似ていようと、同じだろうと、実は違うことは多いではないか。保守は保守でもジスカールデスタンとシラクは違うのである。共産党という名前でもベルリングエルとマルシェは違うのである。私はたとえフランスで選挙権が当時あったとしてもマルシェには投票せず、ミッテランに投票したであろう。しかしイタリア人であったならクラクシやらアンドレオッチやらには投票しなかったであろう。ロベール・ユーの顔は愛嬌があって好きだったが、ただそれだけのことである。

先頃、ローマの信心深い老夫婦のところにやっかいになってしばらく暮らした。エレナおばあさんは一人娘がケンブリッジで勉強したあと、オランダ人に嫁いでいるので、さんざんイギリス政府とオランダ政府を称賛し、イタリア政府をこきおろした。それから<共産党をどう思うか?>という。しかしもう共産党はない。ベルリングエルのあとを継いだオケットが解党してしまったし、共産再建党はたいした勢力ではない。それに私は小さい頃の私ではない。<やはり唯物論はいけませんでしょう。>と答えると、信心のかたまりのようなエレナおばあさんはたいへん満足された。

金沢のプティ・デジュネ

2009年06月01日 | Weblog
急行<能登>に特急<北陸>、それに福井行き急行<越前>など、かつての上野駅、大宮駅には旅情があった。最近も列車の写真を撮っている人たちを眼にしたがまったくお気の毒である。川越線はディーゼルカーで埼京線などというものもなかった。まあしかし、朝夕の混雑はもっとひどかった。

朝の金沢駅で見知らぬマダムに朝食を御馳走してもらった上、将来は医学者になるだろう、などとさんざん持ち上げられて別れた。私はこのとき以来一人旅が大の得意となった。兼六園に行くと、汚らしいジーパン青年と仲良くなった。このひとは旅先で野宿して<天文>をやっているという。一体<天文>とは何であろう?つまりは星を眺めているということか?

金沢は広津里香の故郷である。私の10代のアイドルといえばこのひとである。金沢大学附属高校から東大新聞研へといったひとだ。カッパブックスにひとつ著書がある。

金沢は前田家の殿様が勉強好きがそろっていたため、文化の薫り高い都市なのだそうである。旧制のナンバー・スクールは東京・仙台・京都とまわって、第四は金沢であるし、西田幾多郎も山本良吉も四高出身だ。金沢藩江戸屋敷は本郷の東大となっている。正直なところ維新の雄藩というのは私の好みではない。金沢・会津・弘前あたりが好きである。それに武道の稽古は似合わないが、バレリーナたちにフランス語のレッスンをするのは性にあっている。見知らぬ人たちに<ぼく>などと呼ばれる頃からそういった感性はすっかりできてしまっているのである。

金沢の街を<いちばん高い塔の歌>を口ずさみながら歩く。しかも堀口大学の訳ではだめだ、などと言う。ひとはみな親切であった。やはり私の住んでいるところの連中、通っている学校がおかしいのだ。私は金沢を去り、大阪へ出て急行<だいせん5号>のB寝台にくるまり新天地・出雲へと向かう。砂丘の感触、美しい宍道湖(しんじこ)も忘れない。

国際ポップス学院

2009年05月31日 | Weblog
私が勤務した学校は<ロシア教育メソッドによる国際音楽院>という名前で、モントリオール地下鉄オレンジ線のシェルブルック駅近くシェリエ通り506番地にあった。非常に美しい院長がヴァイオリンとピアノを教え、(院長を口説きにやってくる男どもを追っ払う係も院長御夫君の特命により私が担当した)、アルメニア・ヴァスポラカン王国の王族アルソニ家の末裔たる副院長が声楽を担当しておられた。

私の在任時より心配していたことではあったが、この麗しい学院はとうとう分裂の悲劇を体験し、院長はすでにこの地にはおられず、副院長が学校名を<国際ポップス学院>と改称して院長となり、ポップ・ミュージックの歌唱指導に特化した教育をおこなっている。
http://www.canpages.ca/page/fr/QC/montreal/academia-musika-ecole-internationale-de-chant-populaire/3316750.html

前副院長たる新院長はインターネット嫌いがはなはだしく、Eメールも使わない。それでも弁護士事務所でIT担当をしていたヤニス君がかなりの信任を得て、ついにわが校もインターネット導入かと期待した時期もあったが、ヤニス君は私生活での事情によりキプロス島へ行ってしまったため実を結ばなかった。

この学校の財政事情は確かに明るくはない。御自分の生徒がいつかスターになって大儲けしたら、いくらかは学校に寄付して欲しいと望みをもっておられる。(上智大学のような、不必要としか思えない建物をぼかぼか建てる大学でさえ毎年寄付を、高額寄付者番付まで付けて、ねだってくる。先生のようにつつましく、それでいて文字通り命を賭けてー政治亡命までしてー教育・研究に生きてこられた方の学校が寄付を願っても全く恥ではない)私もいつかお金がたくさん余るようになったら是非御恩に報いたいとは思っている。先日電話で新院長である恩師はいろいろと悩みをお話しになった後、突然<エスペラーンツァ>などと陽気に唄いはじめた。

セリーヌ・フランスという奇妙な名前の生徒が毎週月曜日に通って来て、私が練習補助を担当して懸命に仕込んだものである。いつも眠そうで憂鬱症をひきずってのろのろやってきたけれども、有望株であったしよく勉強していた。しかし政治も経済も歴史も何も知らないものだから副院長はそういった教養も身につけさせようとして、何時間も講義した。それでラカンのような気取ったインテリ本を読むようになり、またカンヌあたりにもでかけはじめる生意気だが素直な娘であった。最近ステージをちょっと観たけどもオ・ラ・ラ!という出来だった。でもまあ、できれば輝かしいスターになって大儲けして旧師の恩に報いるべくたくさん寄付してほしいものだ。
http://www.celinefrance.book.fr/

鳩山家に生まれなかったこと

2009年05月30日 | Weblog
不幸に感じる時はなんについても腹立たしく、また被害者的に感じ始めるものだ。私は鳩山家やら鍋島家やらに生まれなかったことにまで憤慨する。鳩山家に生まれればとっくに私は政務次官くらいにはなったではないか!鍋島家なら一等書記官、将来は大使にはなるはずではないか!いや私はやはりブルボン家に生まれるべきではなかったか!?

腹が立つと大雪の闇の中ぽつんと明かりのともっている店で日本酒を飲みながら四宮でてこい!と叫んだものだ。(四宮氏は総領事であられたが、まったく問題のない紳士である)坂口安吾が田舎で暮らしていたとき、飲み屋に行くと、酔っ払ったお百姓さんがたが近衛でてきやがれ!と叫んでいたという。

私はできることなら、今までのかっこいいところばかり思い出して私の過去のストーリーを創りたいところである。実際いろいろなひとの経歴は華々しく実に立派ではないか?

私どもの人生が神に出会うための巡礼の道であるならば、旅の恥はかきすてて、つねに先をめざすこともまた可であろう。

私を殴るお友だち

2009年05月30日 | Weblog
私より背の小さい彼にはそれだけが楽しみだったのだろうか。小学校は朝が早い。おはようのあいさつの替わりに私のほおをひっぱたくのが彼の日課であった。

それにしても私はお人好しであった。生意気な私は自民党政権の悪口を叫び(福田赳夫氏が総理であった。まだ40日抗争から大平総理の急死へと続く流れは始まっていなかったのだ。大平氏は私の好みであったが、、、)米ソの核軍拡を罵るのに、この少年の暴力行為に抗議の声をあげようとしなかった。田舎の小学校へと流れてきて以来私の心はなにか絶望を感じ夢の中でだけ生きていたようだ。

この少年は私を殴る習慣をとても大事に思っていたらしい。私はこの事態を終息されるためにどうすればよいか、と考えた。不思議なことに私は両親も学校の先生方もまったくあてにしなかった。しょうがないから教育長に手紙でも送ろうかと思った。しかし現今とは違い教育委員会になにか持ち込むという話はまったく聞かない時代である。

そうこうしているうちに年月は経ち、彼ももういなくなった。私はいつのまにか大学へ来ていた。大学の帰り、背広姿の彼がいた。あの頃と同じ顔で、同じ表情で、私に久しぶりにあった親友に語るように、卒業後の遍歴について話した。ほんとうの友であるかのように笑顔で、お互いを祝福しながら別れた。不思議なものである。

巡礼の途上で

2009年05月29日 | Weblog
世の中には悲しい話も多い。かつては実にのんびりとしていて、気楽そのものであった大学界からもつらい話がたくさん流れるようになってどれほど経つであろう。

私が大学1年生になった時はバブル景気の真っ最中であった。しかし私の健康状態は人生最悪に近く、頭も体もおかしくて病院通いの日々であった。バブルの陰で暗闇が迫っていること、あるいは暗闇がまさにそこにあることを私の頭と心、そして体は痛感していたようだった。イトマンという言葉がニュースで繰り返し囁かれるようになった。東京大学医学部にいた、無名だが偉くて崇高な医師に私は治療していただいた。あの先生は助手のままとうとう死んでしまったけれども。

就職先の勧誘が無数にあった。しかし心身共に衰弱し、フランス流のキリスト教を学ぶことしか私にはできなかった。バブルは崩壊し山一や拓銀が消えていった。しかし私は元気になっていった。私のような者でも生きてゆけるようにするためには旅立たなければ、と思った。

どこへ行くにも私にとっては学びと祈りの旅であった。自殺したいくらい惨めな気持ちになることや、殺したいくらい憎しみを感じることも人生の途上にはあるかもしれない。しかし寝込んで何もしないで暮らす日々が多少長く続いてもなんとか生き延びることが大切であろう。レッテル貼りの世の中を重大視せず、恥知らずなほど、しぶとく生きつづけること。頭がよいのにひ弱な青白い顔のインテリ少年・青年には敢えてそう願い、祈りたい。

カルラ・ブルーニとシャンタル・ビヤ

2009年03月20日 | Weblog
フランス国民にもっとも人気が高かった人物のひとり、エマニュエル修道女が昨秋99歳で逝去した。国葬級のミサがノートル・ダムで執り行われ、フランス大統領夫妻はじめ、多くの貴顕もまたこの修道女にオマージュを捧げた。(最初に見えるのは前大統領ジャック・シラクであるが、すこしお待ちになればニコラ・サルコジ、カルラ・ブルーニ夫妻がやってくる。)
http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00041917&vl=video_les_plus_vues

ローマ教皇は昨年パリを訪れてエリゼ宮、コレージュ・デ・ベルナルダンなどで政界・学界・諸宗教界の諸賢と会見、ノートル・ダムでの晩課、アンヴァリッドでのミサの後、巡礼者としてルルドを訪問し、多くの病人とともにミサをささげて、貧しく無知な少女ベルナデットの取次ぎを懇願した。パリ・オルリー空港ではフランス大統領夫妻が直々に教皇を出迎えた。

http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00040850&vl=video_les_plus_vues

現在、教皇はアフリカ司教会議のためカメルーンならびにアンゴラを訪問中である。

http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00043834&vl=video_nouveautes

http://www.ktotv.com/cms/videos/fiche_video.html?idV=00043839&vl=video_nouveautes

カトリックを事毎に叩く習性のある朝日新聞などは教皇の悪口を大々的に報じたが、現教皇にさまざまな批判があることは承知しつつ、好むと好まざるとに関わらず、ヴァチカンという歴史的地理的政治的宗教的思想的現実をいろいろ眺めるのも一興であろう。

フランス共和国大統領夫人もカメルーン共和国大統領夫人も教皇と教会の王子(Princes de l'Eglise)たる枢機卿・司教たちを恭しくもてなしていた。
カルラ・ブルーニの立居振る舞いは野蛮男の魅力をもつサルコジより優雅なようだ。サルコジもハンガリー貴族の末裔ではあるけれども。ヨーロッパもアフリカ政界もヴァチカン官僚機構も複雑怪奇であるが、あまり怒ったり苛々したりはせず楽しみながら学びたいものだ。

また、ソルボンヌおよびパリ政治学院で学んだビヤ・カメルーン共和国大統領、エイズ問題に取り組むシャンタル夫人、また同僚の方々がアフリカ人民のために幸いな政治をしてくださることを心から祈念したい。
コメント (2)

黒い肌輝くラマ・ヤデ

2009年03月17日 | Weblog
いわゆる新自由主義経済へのほめ歌があらゆるところから聞こえてきた時代は終わった。心の底から憎しみを感じ、日々呪いの歌を捧げたブッシュも小泉も竹中ももういない。(呪いの歌を歌ったことには心から神の赦しを願う。)

私は国境なき医師団とすこしだけかかわったが、そのかつての中心人物だったベルナール・クシュネールはサルコジのもとで外相となったけれども人気は低落気味だ。かつてフランス政治家人気No.1はクシュネールであったのだが、左派であった彼はサルコジ保守政権に入閣し、その上、エリゼ宮から情報がリークされたとかいう暴露本が出版されたりして苦労しているらしい。

パリで低所得者のための住宅供給を求めて元気に街頭で演説して楽しんでいる老紳士(かつてのレジスタンス闘士)が日本人事務局長率いるユネスコから賞をもらったが、その老紳士を讃えるためわざわざフランス政府からつかわされたのが30代はじめで外務次官級にまで昇進したラマ・ヤデ氏であった。今年、彼女はフランス政治家人気No.1にランクされた。

フランス社会党第一書記にジャック・ドロールの娘マルチーヌ・オブリ、双璧を為すセゴレーヌ・ロワヤル、保守のエースはアフリカ出身のラマ・ヤデ、人気急上昇の若手は郵便局員の反資本主義派リーダー・ブザンスノー。フランス政界はヴィクトール・ユゴー上院議員の時代を髣髴とさせるロマン主義時代の様相を見せている。

アマルティア・センを想う

2009年03月03日 | Weblog
朝日新聞を手に取ると、アマルティア・センの写真が大きく載り、彼についての記事が書かれていた。

小泉氏が政権に上り、構造改革の大宣伝に国民が熱狂していた時、年来の私の友人まで小泉礼讃の言葉を航空便で送ってくるものだから、喧嘩別れして<うらぶれて・ただひとり・青空のかなたを眺む・ああ、われを知り・われを慈しむひとは・遠き彼方に>などと呟いて彷徨い歩いていた。

ルノ・ブレ書店に老教授を迎えに行くと、彼はアマルティア・センの本を眺めていた。<この本は難しい点がいろいろあるから、君が読んで報告してくれないかね。>と言われた。アマルティアの本を何冊か、その他経済学の本を何冊も仕入れて読んだ。ルネ・パセ、ポール・サミュエルソン、クルグマン、スラッファ、シュンペーター、アイリーン・ドニューヴ、、、宇沢弘文、広瀬隆、ネット資料の山形浩生、池田信夫、、、

こういう本を読んでいると何か得体の知れない憎しみが込み上げ、私はピアノに向かって鍵盤を叩き、中世ラテン語の破門・追放の文章を捜して巨大なおそろしい仕組みに投げつけた。

先日BBCを見たら、アメリカ人の高名な経済学者が昔のナスダックの社長にありとあらゆる罵りの言葉を投げつけていた。本の表紙のアマルティアは穏やかな顔で笑っている。