柴田典子の終活ブログ「エンディングノート知恵袋」

エンディングデザインコンサルタント柴田典子のブログ。
葬儀に関わらず「賢い老い支度」として終活全般のお話もしています。

家族葬を考える 会葬拒否のイメージ

2023年02月24日 | お葬式
今や葬儀の話になると「家族葬にする」という人がほとんどです。
「家族に迷惑かけたくないから」
「葬儀にお金を使うより残った家族のために残したい」
「親戚も友人も高齢で声をけても来れないし」
「人が来ると悲しんでいることもできないから」
という理由が多いです。

葬儀社が提案する「家族葬」は「家族と近しい親戚や友人で送る葬儀」という説明が一般的です。

この数年間はコロナの影響で家族だけで見送る葬儀が主流でした。
本来は故人がコロナ感染者であっても遺体からの感染はありません。つい最近のことですが死因がコロナであっても納体袋に収納する必要もなく、ごく普通の葬儀ができると厚生労働省が葬儀の指針を訂正しました。気を付けるべきことは会葬者間の感染リスクがあることです。
「マスク使用」も個人の責任に任せるということになれば人数制限は問題になりませんね。

大事な家族が亡くなったら、悲しいのは家族だけでしょうか?
誰の葬儀に出たいか、の問いに親や兄弟に次いで友人という答えが出ています。

私は高齢者夫婦の所帯です。
子供は二人いますが別居です。一人は車で5分くらいのところにいますし、もう一人は1時間位かかるところにいます。
今私は歩行が不自由です。一人での外出は不可能です。
子供に用事を頼んでも仕事や育児に追われ、すぐの対応は難しいのです。
主人は「何もしない人」でこれまでを過ごし、免許も返納し、認知症の陰りも見え、あまり頼ることができません。
買い物や外出時の付添や様子を伺てくれるのは、ご近所の方や友人です。
多少離れていても、メールや電話で状況を訪ねてくれたり心配をしてくれます。
とても有り難い人たちです。

もし、私や主人が亡くなったらお世話になった友人に葬儀に来てほしいと思います。
反対の立場であっても私は何を置いても友人のもとに駆けつけます。
昨日のニュースで笑福亭笑瓶さんの訃報が流れ、師匠の鶴瓶さんは「最後の顔が見れてほんまによかったわ」とインタビューに答えています。
火葬が終わって、遺骨や遺影に言葉をかけるのと、まだその方の姿があるうちに声をかけるのではまるで違う気持ちになります。
こちらの話を聞いてもらえている感覚があります。
それだけ最期の対面は意味があるのです。

葬儀社に勤めていた時にも、遺族が親戚とは違った気持ちで友人に慰められている場面を何度も見てきました。
また、家族が知らな方からの弔問を受け、故人との関りを知った時の感慨深いご様子もよく見かけました。
「顔も知らない人が来てもらっても迷惑」と言っていた方が目に涙を浮かべていることもよくあります。
家族として知らなかった故人の姿を最後に発見できるのがお葬式なのです。
「家族以外の人との関り」これは体験しなければ知りない感覚です。
そして、今の葬儀は義理で参列する方はいなくなりました。
亡くなったことを人伝いに知れば、お別れに立ち会いたい人はきます。
別れの権利は誰にもあるのですから。

あるセミナーで「私は娘と二人暮らしです。もし私が死んだら娘に迷惑をかけないように誰にも知らせず葬儀をしなさいと言ってあります」
と話しかけられたことがあります。
私がお伝えしたことは「もし、娘さんが一人であなたを見送るよりもあなたの仕事仲間や友人があなたの生きた様子を娘さんと共有できるなら、娘さんのあなたへの想いはずっと豊かなものになるのではないでしょうか。きっと寂しさもどなたかに理解していただけるのでは?」というものでした。
その方は「今まではそんなこと考えたことがなかったけど、もう一度考え直してみます」と言われました。

もし、私がこの世からいなくなるのであれば、「有難う。残った家族をよろしくね」と伝えたいのは、親戚であれ友人であれ、尊敬する人であれ、
私が心から接した人だと思います。

高齢の親を送る場合も、親の友人はいなくなていても高齢の親や介護する家族を見守ってくれたのはご近所の方やあなたの愚痴を聞いてくれ人ではないでしょうか。その人たちは家族を看取ったあなたを気遣っているはずです。

「家族葬」というネーミングは遺族から声をかけられない限り、会葬を拒否するイメージがあります。特に友人の立場は「遠慮すべき」と考えれがちです。

遺族から「生前はお世話になって有難う。よかったら最後の顔を見てもらえるかしら」と声をかけてほしいと思います。




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