繁浩太郎の自動車と世の中ブログ(新)

モータージャーナリストとブランドコンサルタントの両方の眼で、自動車と社会をしっかりと見ていきます。

「私の愛車遍歴」第16回「左ハンドル・ミニ」 

2021-05-05 10:27:31 | 日記

最後まで、愛車遍歴を書こうと思いたち、今回は「左ハンドル・ミニ」

ホンダの先輩から「私のミニに興味ないか」と問われ、即答「あります」と答え、トントン拍子にその「左ハンドルミニ」は私のとこにきた。

そのミニは先輩がオーストリアでレストア済?の66年式ミニを購入し日本に送り車検をとって乗っていたものだった。会社内ではちょっとした噂になっていた、というのも程度はもちろん良かったのだが、何しろ「半レーシング仕様」になっていた。ロールバーから、シートとフルハーネスベルト、エンジンのハイカム化まで、ジムカーナにすぐ出られる代物だった。

その噂を聞いていたので、二つ返事で譲ってもらった。しかも、価格は先輩価格で価格と言えるほどの金額でなかった。

名義変更などは元ホンダマンの後輩が自動車屋をやっていたのでお願いし、一緒に引き取りに行った。

その後輩もなかなかその左ハンドルのミニをみて関心した。なぜ左ハンドルかというと元はオーストリアだったからだ。日本では左ハンドルミニは珍しかった。

ただ、ミニは元々イギリスの車だったので右ハンドルだが、ヨーロッパ大陸は左ハンドルだ。だから右左の作り分けは簡単にできるようになっていた。

つまりアンダーフロアなどが同じで、ハンドルとペダルアッシーは簡単に左右ハンドルに合わせて組み付けられるようになっている。メーターはセンターだからそのままだ。センターメーターにはそういう意味もあった。ちなみに、ビートルはメーターとグローブボックスでやり取りを簡単にしていた。

そのレーシング仕様のミニを公道で走らすにはちょっと大変だった。

まず、乗り込むのが大変。フルバケットシートなので本来ハンドルを取らないと乗り込めないくらいだった。またそのベルトはフルハーネスなために装着に時間がかかった。やっとセンターにあるイグニッションキーを回すとエンジンは簡単にかかるが音がすごくアイドルはばらつく。アイドル回転を上げるしかなかった。

走り出しは、強化クラッチでドンとつながる。す〜っと静かに走り出すのは無理だ。しかもエンジントルクは最低3500rpmくらいからでないとトルクが出ない。排気量は確か160ccくらいだったが、そのトルクで強化クラッチでドカンと発進する。一人のときは良いが隣に奥さんが乗ると注意しているとはいえ首がガクンとなる。

その後、なるべくす〜っと加速しようと思っても、なんだかガクンと加速する。これはセナ足が要求された。どうもアクセルワイヤーの先の取り付けがスロットル軸に近いようだ。

隣の奥さんは首が鍛えられた。

最初は奥さんも喜んで乗っていたが、色も薄ブルーで可愛かったので、その後、だんだんと横に乗らなくなった。

太いロールバーが室内に入っていたので、後ろの席に入れなかった。つまり、シートはついているが乗れなかった。それどころか後ろのウインドが拭けなかった。つまり、ロールバーで後ろへのアクセスが全くだめだったのだ。

それでも、楽しくドライブしたこともあった。最初は近場の荒川沿いの秋ヶ瀬公園まで行ったりしていたが、かかりつけとなってしまったミニショップから、清里でミーティングがあると聞き、前泊で参加した。行きの中央道では制限速度の80km/hあたりで走ったが、凄まじい音と振動だった。横にのっていた奥さんは、クルマがバラバラになるんじゃないかと冗談半分で言っていたが、私は真剣だった。油温水温などのメーター類は正常を示していた。しかし、4時間ほどかかって清里に到着した。

前泊は費用の関係もあり、ちょっと若いとは思ったが、まだ残っていたペンションに泊まった。移動日もその日も晴れていて、林の中のペンションの早朝は気持ち良かった。しかも、泊まっている人達はミニのミーティングに参加する人たちが多く、外の駐車場にはいろんな色にカラーリングされたミニが並んでいて、自分達のミニと比べたり、ミーティング前にすでに盛り上がった。

朝食をすませ、会場へ行くとそれこそいろんな色や形のミニかいて、楽しく見て回った。当然ソフトクリームを食べ、お昼を食べてそろそろ帰るかとなった。

ミーティングで知り合った人たちに挨拶をすませ、会場をあとにして走り出して5分ほどしたら、エンジンの調子が悪くなった。

路肩にクルマを停めて、かかりつけのミニショップへ電話した。フロートが溢れていたので、相談すると「とにかくバラして再組すると治る場合があると聞いた」。私は工具は何も持っていなかったので、なんとか会場に戻り先程知り合った人に工具を貸してほしいとお願いした。もちろん貸してはもらえたが「66年式のクルマで工具もなしに遠出するなんて無謀」と言われた。確かにそうだと納得した。フロートへいくガソリンホースもだめだったので、困ったが、周りで見ていた人が「あるよ」とくれた。

ありがたくいただいた。

フロートを再組し、エンジンかけると気持ちよくかかった。

皆さんに、お礼を言って再出発した。調子のいい間に帰りたかったが、東京までの道のりは遠い。そのドキドキ感は、私には耐えられたがメカオンチの奥さんには耐え難い恐怖だったようだ。

帰ってから、二度と乗らないと宣言された。

この経験に様々なことが重なり、最後は離婚後遺症の金欠もあり、このクルマを楽しむのは私一人かと思うと、手放すしかないなと思うようになった。

しかし、先輩から譲ってもらったものだし、先輩は言わなかったが、私なら長く乗ってくれると期待していたと思うし、しかも66年式というビンテージ領域の車だし、なんとか乗り続けたいと思っていたがとうとう手放す決断をした。

ミニショップへ持っていったが、足元を見られたのか、非常に安い価格だった。私も元々安く買っているので仕方ないと思えた。

この後、黄色いデルソルはネットで販売し、元々乗っていたBMW3は処分に近い形で下取りしてもらって、またBMW3を個人でなく家のクルマとして買った。しかし、直6の味が忘れられない私の好みからだった。奥さんは、ピンクパール500台限定の特別色ボディカラーが気に入った。

しかし、これは後になって近所に意外と生息していてがっかりした。

 

 

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クルマは楽しいか?

2021-02-19 17:11:28 | 日記

昔は、クルマの楽しさといえばだたいブッ飛ばすことにあった。

運転免許証を取ってすぐの若者はブッ飛ばし、事故率も高かった。

「速さ」は私の自動車図鑑(自動車 解剖マニュアル (まなびのずかん) | 繁 浩太郎 |本 | 通販 | Amazon)の最後にも書いてますが、2~3歳の子供をプラスティックのおもちゃのクルマに乗せて、ゆるい坂道を下らせると、声をあげて大喜びします。それで、何回ももう一回もう一回とねだってきます。

つまり、人間の歩く速さより速く動くものに対して本能的に「楽しい」のではないでしょうか。

 

やはり、人間は本能的にスピードが好きなんでしょう。

リニアモーターカーもその速さで盛り上がります。、

しかし、20年近く前から、若者はブッ飛ばさなくなったようだし、リニアモーターカーは新幹線ができた時代より盛り上がらないように思えます。

 

どうも、もう「速さ」は、そんなに注目されることもなくなったし、勿論楽しさのコアにもならないようです。

 

クルマの新しい楽しさ基準は「速さ」ではないでしょう。

 

クルマから「速さ」という価値観を奪うのは昔だとクルマの存在そのものを否定することになりかねませんが今だとそういうことでもなさそうです。

 

だいたい、道路インフラは、ドイツのアウトバーンでも速度無制限区間は大変少なくなってきました。

200km/h程度の高速で走るクルマは少なくなってきましたし、250km/hや300km/hというさらなる高速で走りたいという人は少ないと思います。

だいたい飛ばすと、燃費が悪くなるし環境にもよくありませんし、200km/hの高速なんて、人間の操作限界かもしれません。

カーメーカーも最高速度競うようなクルマは造らなくなってきました。売れないということですね。

 

だから、昔の価値観である速度でクルマをきっても、そこからクルマの楽しさはでません。

 

今どきのクルマの楽しさってなんでしょうか???

 

私はホンダにいる時に、ずいぶんと前ですが、これからのクルマの楽しさとして、ポケベルで待ち合わせ(ホント随分と前だ)、みんなで一つのクルマに乗りワイワイと楽しみながらカラオケに行くというイメージビデオを若手社員を出演者として手作りしました。(クルマは楽しさの対象でなく楽しさの為の道具だというビデオ)

これを、偉い人達にプレゼンして時代が変わっている事を伝えようとしたのですが、「クルマは自分で運転して走るから楽しいに決まっているだろう」の一言で、せっかくの手作りビデオはお蔵入り。

 

先日テレビで旧車30年乗っている人を取材する番組があり観ました。

そのオーナー達は勿論高齢者で、クルマも古すぎるのですが、スピードでなく散歩するようにクルマを走らせて「楽しんで」います。

私が80年代の中にビートル買った理由もそれでした。

旧車は老いぼれ老人と同じで、またオーナーも高齢者で・・・というある意味特殊事情がありますが、この辺りが新しい時代のクルマの楽しさをさぐるヒントになるのではと思います。

 

今どきの若い人は、運転が下手でスピードが上がると怖がります。(タックインなんて説明すると「なんでそこまでして速く曲がらないといけないの」ときます。)

パトカーの運転手は私世代のあこがれでした。いくらスピード出しても捕まりませんしね。

しかし、今どきのパトカーの運転手は高速で追っかけて捕まえるのが怖いというのを聞いたことがあります。

また、今どきの若い人は、コンプライアンス遵守意識も高く、公道の最高速度表示は本当に最高速度ととらえています。

よって若い人は制限速度以下で走ります。私の若い時とは全く異なります。

 

私の時代はA地点からB地点までどれだけ速くいったかが価値観となり友達に自慢しましたが、今は「そんなの意味ないじゃん」で終わってしまいます。

 

ただ、そういう人達も適度なスピードで風をきって走るクルマに爽快感を感じています。

 

今のクルマは高速まで快適に走れることを目標に造ってきましたが、結果「走り感」をなくしてきたように思います。

 

より低速で「走り感」を具現化すれば、クルマのスピード化に価値観の無い今どきの若い人たちにも「クルマは楽しい」といってもらえるかもしれません。

今どきの若い人の中でも旧車に興味を持つ人が増えてきているのは一つの価値観の兆候であるかもしれません。

 

昭和から平成の時代はスピード化の価値観から燃費の価値観に変わった時代でしたが、それらをふまえて今後令和は「ロースピードの時代」がきているのではと思っています。

 

多くのモータージャーナリストの方々がEVの走りを旧来の価値観で評論されているのをみて、なぜもっと新しい今後の社会の価値観でみれないのかな?と思います。

たとえばEV単体の商品力が上がって人々が買い始め多数になったら、日本の発電はこまり、さらにCO2も。

そんな日本でなんでEVなんだ? 多くのユーザーの人達はそう思っているでしょう。

 

EVはハードの評価だけでは語りつくせません。

そこにカーメーカーの事情や都合、さらに国が重なると複雑になってきます。

 

それらをモータージャーナリストは解きほぐして、ユーザーに示すことが大切なのかもしれません。

 

その評価でカーメーカーもクルマの新しい楽しさに気づき、それに対応したハードを造るようになると次世代の楽しいカーライフが始まると思います。

 

 

 

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私のホンダ記録 Vol.2

2021-02-05 16:34:44 | 日記

前回のバラードの部品設計が終わって、二代目アコードのインパネチームに配属になりエアコンの吹出口となるアウトレット、インパネ本体前面から幅広くゆるくエアコンの風を出すための薄っぺらいエアーダクト、インパネアンダーカバーなどを担当した

図-1 エアコンの吹出口となるアウトレットと薄く幅広いアウトレット

 

入社後一年足らずだったが、多くの部品を任された。当時ホンダは急成長の真っ只中で人が足らなかったのだ。中途採用なら入社後一ヶ月も経てばベテランと言われた。

和光研究所の設計室は講堂のような広い場所にドラフターがズラッと並ぶという見たことのない景色だったが、そのドラフターの林の中を他の設計者との調整のために私は走り回っていた。

いわゆるホンダ独特の「ワンフロアー」だ。これは本田最高顧問の考えで「上下フロアーを階段やエレベーターで移動となると、どうしても億劫になり、コミュニケーション不足なりやすい。」という理由だった。

実際ワンフロアーは室課をまたいで見通せるので腰が軽くなった。

なぜ、そんなに調整が必要になるかといえば、ホンダは平行開発組織だったのだ。

エンジンや開発に時間のかかるものを除いて、ほぼ全ての部品の設計(作図)が同時スタートなのだ。普通は順を追って設計すると思うのだが。

設計者同士の調整不足のまま図面を描いてしまうと部品同士が干渉したり組み付かなかったりしてしまう。そうなった時は、すぐに設変して部品を造り直す。「走りながら考えろ」とよく言われた。全く慌ただしい設計室だった。

時代的にも高度成長期で「世はスピード時代」とも言われて、今とはスピード感が全く異なる。

 

さて、私の担当のアウトレットは、フィンを挟んだ風向調整つまみがあるデザインだ。

フィンはプラスチック製で薄いので、つまみを上下さすとグニャグニャする。また、左右方向の操作はカシャカシャとなり調整しにくい。

当時のアウトレットの主流はフィンとケースが一体になっていてケースごと動かして風向を変える通称「グリグリ」というものが多かった。

図2 グリグリ(フィンとケースが一体で風向調整はケースを動かす)

図3 フィン独立形式(風向調整はフィンだけが動く。ケースは固定。)

 

グリグリ式にしてくれないかと、デザイン担当に頼みに行ったら、「このインパネは平等院の鳳凰堂をイメージしている。繊細でありながら質感の高いものでないといけない。・・・」

とひとしきり講釈(デザインへの思い入れ)を聞かされて渋々設計室に戻った。

悩んだ時の基本は、「他車はどうしてる?」。

本などで色々と探すとなんとBMWの5シリーズのアウトレットとほぼ同じデザインじゃないか! 

デザイナーもなんだかんだと言っても真似てるじゃないか。

その構造を見るために実車を探しあて、つまみを操作してみると、至極しっかりとしていた。なんとフィンがダイキャスト(金属)製だったのだ。そりゃしっかりしているはずだ。しかし、当然プラスチック製よりコストは大幅高になる。

BMW5シリーズと当時の二代目アコードでは価格が違いすぎる。どう考えても、フィンをプラスチック製からダイキャスト製には出来ない。

困っていたら、泣きっ面に蜂のように、社長が急にきて試作車に乗ったらしく、その際に「このアウトレットのシャカシャカはなんだ! もっと水飴のようにネットリと動かないものか」と左脳系の設計者にはわかりにくい指摘をしたのだ。

何いってんだ、「コストを考えたからプラスチック製のフィンにしていて、同じプラスチック製のつまみではシャカシャカとなるのは当たり前」そんなこともわからんのかと頭にきた。

しかし、先輩は「社長はあるべき姿を言っていて、それに向かって努力するのが我々でしょ、どれ位考えたの?」など言われたが、とにかくもっと考えろという事だった。

その時から、「水飴フィーリング」という言葉に悩ませ続けられた。

悩むと悪知恵が働いた。

コストで出来ないフィンのダイキャスト化を、社長指摘の水飴フィーリングと一緒に解決できたら、コストアップもゆるされるかもしれない。

フィンがダイキャストになってしっかりするとそれにつまみがしっかりと食いつけばいい。

ただ食いつくのでなく、旋盤のベッドと往復台の合わせのように三角で合わせればうまくいくかもしれない。

図4 旋盤のベッド移動構造(3角面で受ける)

 

 

これは意外とうまくいって、この構造でパテントも生まれて始めてとった。

社長と役員が最終的に評価するクルマにこの構造のアウトレットを取り付けた。

ただ、その構造だけではイマイチだったので、設計仕様にはないが、ちょっとだけネットリする鼻薬をつけた。最高の水飴フィーリングになった。評価結果は勿論OKだった。

まぁ、評価員を騙したことになるが。

しかし上司は「騙したことにならない」「こういう水飴フィーリングと定めたこと、今後日々考えて近づいていきますということで、それを評価してくれたのだ。」と。

やらずにギブアップするのでなく、あるべき姿を造ってそれに向かって考え続けるコトが大切なのだという事を教わった。

 

インパネの薄っぺらいエアーダクトの設計課題は、ブロー成形でいかに薄っぺらい形に成形できるかというものだった。

ご存知のようにブロー成形は風船を金型内で膨らますような成形方法なので、まん丸だと均一の肉厚で出来るが、一部分尖っていたり凹凸形状があると部分的に肉薄や肉厚になってしまい、全部をカバーする材料費と成形時間がかかりコストが高くなる。

その薄いダクトは厄介なものだった。

そこで、次に設計する人が、困らないように「ブローダクト設計マニアル」というのを作った。

ちなみに、新卒で入った会社では、「標準化」といって、「誰でも出来る事が大切」と徹底して教育されていた、マニアル化は大切な仕事だった。

そのマニアルを誇らしげに上司のとこに持っていったら、上司からは「設計マニアル作ってどうするの」と言われた。

「アレ?」。

「マニアルを造るとそれを見て設計するから考えなくなるし、それ以上のものが出来なくなる。自分なりによく考え、前の人より良いものを造ることが大切なのだ。」「人間は自由で創造の生き物だ、なんでマニアル作って枠にはめるのだ。」と言われた。

ついでに言うと、ホンダでは転属の場合などでも殆ど引継ぎはしない。同じ理由からだ。

ホンダの人間尊重の理念は、福利厚生や労働環境が良いという事もあったが、各自の立場で自由闊達に創造性を発揮できるという意味でも使う人間尊重だったのだ。

とにかく、商品第一で所員は創造性を発揮する事に集中できた。

 

本田宗一郎の良い(勝ち抜く)商品を造るために創造性を大切にする気持ちと藤沢武夫が考え抜いた開発部門独立組織の形が両輪となって、その後のホンダブランドを形成する商品につながっていったと思う。

 

 

 

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私のホンダ記録 Vol.1

2021-02-05 15:55:30 | 日記

私は、79年の5月連休明けにホンダの四輪開発部門に中途入社し、その後ありがたいことに開発一筋で定年まで勤めた。

ホンダでの仕事生活はチョット宗教的?とも言える魅力があり、出来るだけ長く働きたいと若い頃から思っていたので、途中、良い条件でのいわゆる「引き抜き」もあったりしたが断った。

宗教的とも言える魅力とは、会社というより集まる者を受け入れる集団みたいな組織で、みんな平等に尊重され、個人はモノづくりに一直線になれる、またその結果個人の生き方も有意義なものになるという、なんともうまく言えないが魅力的なホンダだったのだ。

会社では、噂や愚痴など言ってもしょうがないことを言う人は少なく、たとえ誰かが言い始めてもすぐに今度のあの構造は・・と今後のクルマの話にすり替わった。

当然、会社帰りの「新橋でチョット一杯」は無かった。

飲み会や慰安旅行は結構あって、その時は爆発して飲みまくった。(ちなみに私は45歳まで飲めなかった。)

ホンダは本田宗一郎というカリスマがいてその魅力などを語った本は多く出版されているが、研究所として開発部門が独立している組織は普通の会社とは大きく異なる稀有なもので、外からはわかりにくいのではないかと思う。

そこで、今回から「私のホンダ記録」と題して、私の記憶からエピソードを中心にして書くことにより、当時のホンダブランドの一角を成す四輪研究所の魅力を少しでも皆さんに伝えたいと思い、書き始めることにした。

 

今回は一回目なので、ホンダに入社して間もない頃のエピソードから始めたい。

入社後、私の場合は一週間の朝霞研究所での座学研修の後、一か月狭山工場で工場実習をした。(時期によっては、半年など様々だったらしい)

実習といっても完璧な現場要員で初代アコードのインパネの小組ラインについた。

私はテキパキ出来る方と思っていたが、これが煽られっぱなしで正直少々参ったのを覚えている。ラインではハーネスの束をインパネの裏側に力づくで組み付けるのだが、軍手をしていても手が腫れるほど大変な作業だった。

勿論、トイレタイムは決まっていて、その時間以外はラインから離れられない。万一のトイレのときは、手を上げて班長さんに変わってもらう。ある時、お腹を壊していてトイレに何回も行き班長さんにこっぴどく怒られた。健康管理も仕事のうちだと教わった

やっと実習期間が終わって、最後の日に班長さんにお茶に誘われた。その時、班長さんは日々組み付け作業で苦労しているラインの作業者を見ているわけだから、「研究所に帰って設計するなら、もっと組み付けやすい構造を考えろ」と言われるものと思っていたが、「研究所へ帰ったら良い商品開発してください。」という激励だった。

私が出会ったいわゆる「ホンダマン」の最初の人だった。

ホンダには、自分の立場からだけで考えて話すのでなく、「自分が社長の立場」であるかの如く、高所からの視点で考え話をする人が多くいた。

また、トイレ掃除のオジサンまで「このクルマのここは使いにくいおまえさん設計なら直したほうがいいよ」と言ってくれるのだ。

これには大変ビックリして、後にホンダ体質の一角を表現することばとして「全員社長」と名付け、多くの後援会で使わせてもらった。

 

その後、研究所のインパネの開発部門に配属になり、いきなりバラードというクルマのコインポケットの設計を任された。

コインポケットは、「コストなどの関係で蓋は設けないが、クルマの走りだしの加速時にもコインが室内へ飛び出さないようにする」というものだった。

 

図-1 バラードのコインポケット

一応インパネ全体がドライバーの視線や操作を考慮して、斜め上に傾いていたので、そのままでもコインは飛び出さないかと思っていたら「こんな傾きだけではコインは飛び出すよ」と完成車テスト室の先輩に言われ、「手前にこれくらいの土手を付ければ」と中々いいアイデアだろうと言わんばかりの今でいうドヤ顔で言われた。

テストが役目の人も、テスト結果を出すだけでなく、勿論構造まで理解していて、良いものにするため設計者と議論するという、100%縦割りの無い全員社長の「文鎮組織」だった。

 

「文鎮組織」は開発者間の自由闊達で建設的な議論をするのに適していた。相手が先輩や年上の人でも、丁寧な言葉で尊重しつつ(たが)、技術に関しては対等でトコトン議論した。

土手をつけるアイデアは良かったが、金型コストが上がるので、恐る恐る上司にコスト上がりますけど・・と相談にいったら。

「いいんじゃない」と簡単に言われ、ちょっと拍子抜けした。新卒で入社した小さい会社では、コストを叩き込まれていたのだ。

逆に「ここに土手付けられるの? 成型できるの?」と。

このころのホンダは開発機種の激増で、中途採用を多くとっていて、半分位は中途採用だった。新卒でホンダに入った先輩上司はプラスチック成型の知識もあまりないまま設計していた。

それゆえ、とても成型出来ない部品図面も多くあったが、そういう時は「部品メーカーさんから言ってきてくれるから」という至極簡単な話で終わった。

 

コインポケットの図面が終わったら、すぐにコラムカバーに移った。

コインポケットはデザイナーがそんなに関わらず、設計のデザインセンスでよかったのだが、コラムカバーになるとデザイナーが出てくる。

集中スイッチのレバーの出口や全体の面の流れなどをデザインする。

私は、コラムカバーと中に入る集中スイッチやインパネとのあわせ方などを考えて図面を描いた。

 

当時、デザイン関連はデザイナーが面の具合や全体の雰囲気を、木型でチェックする「木型承認」というのがあって、部品メーカーさんの関連会社の木型屋さんが、コラムカバーの面や見切りなど図面を忠実に再現した木型を作って、それに合わせてプラスチック成型の金型を作るという段取りが一般的だった。コラムカバーは上面と下面でステアリングシャフトと集中スイッチを挟んで組み付けるので木型は二つになる。

図-2 コラムカバー上下

 

大先輩のデザイナーがコラムカバーの木型をそのスマートな手の平で撫でまくり、「ここは1/100mmかな、いや6/1000かな」などと、木型修正をひとしきり依頼する。

私は、コラムカバーの上面なんて、ハンドルとメーターの間でほとんどユーザーに見えないのに・・、と思いつつ大先輩の言うことなので、一応黙って横で聞いていた。

それで、やっと上側が終わりこれで終わりかと思っていたら「下側も見せて」とその大先輩のデザイナーが言った。

そこで、私は耐え切れずその大先輩上司に「Mさん、コラムカバーの下面のデザインなんて見る人いませんよ、だいたいのぞき込まなきゃ見えないじゃないですか」と言ってしまった。

Mさんの表情はみるみる変わって、ヤバイ雰囲気に感じたが、ちょっと間をおいてから優しく「人の見えるところだけデザインするのは合理的だが、合理でモノづくりしてはダメだ。それを続けていると気が付かないうちにどこか良くないところができてしまう。モノづくりは、見えないところまでも完璧にしないとダメなんだ。それがホンダだ。」と言われた。

この大先輩がホンダマン2号となった。

B2C商品には「エモーショナルな価値」「造り手の気持ち」が大切でそれが「ユーザーに伝わるもの」だということを教えてもらったのだ。

この言葉が、その後の私のモノづくりの考え方を大きく変えたのは言うまでもない。

次回は、また違ったエピソードで当時のホンダを語っていきたいと思う。

つづく。

 

 

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ホンダの新組織

2020-06-22 19:26:15 | 日記

5月の日刊自動車新聞に寄稿したものを転載します。

 

ホンダ四輪開発部門の大きな組織変更

最近ホンダから「事業運営体制の変更について」というニュースリリースが発行された。今までホンダは魅力ある商品と技術の開発を目的に、開発部門は㈱本田技術研究所という形で本田技研工業㈱とは別会社になっていた。

四輪事業において、このユニークな組織で過去に数々の時代をリードする新技術や魅力商品を開発しブランドを築いてきたが、今回その開発部門を本田技研工業㈱に統合するというものだ(先進技術、デザイン部門等はそのまま)。長年のユニークな組織を変更する背景を考えてみたい。

  • 開発部門独立のいきさつ

ホンダは本田宗一郎という天才技術屋と藤沢武夫というこちらも天才経営者の二人三脚で、戦後の二輪メーカー乱立の中を生き延び、さらにスーパーカブをアメリカでも成功させ大企業の仲間入りをした。

そんな中、藤沢武夫は4輪参入を含め会社を持続的発展させるにはどうすれば良いか考え抜いたと聞いている。

・「新商品、新技術を創造するということは、試行錯誤する場が必要だ。」

・「試行錯誤が必要な創造性仕事と生産効率追求や利潤追求するような仕事とは、本質的に相まみえない。」

・「創造性仕事は上下関係に気を使っていてはできない。」

・「業務効率やお金の仕事をしている側から見ると、創造性仕事は仕事に見えない。」

このようなことを様々考えて、ユニークな文鎮組織の技術研究所独立にいきついたようだ。

文鎮組織とは、文鎮のように、指でつまむトコを社長と考え、あとは皆横一列という意味だ。その社長の本田宗一郎でさえ「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。・・・記号に過ぎない。」と言っている。

  • 開発部門独立の成果

80年代に発売された“ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ”は現在のナビゲーションシステムの元祖と言えるが、この他にもCVCCなど世界に誇れる技術を数多く創れたのは、研究所独立の成果だと考えられる。

また、ハード開発だけでなく員のチャレンジ精神も養われた。

例えば、開発者の「これが完成したらユーザーは喜ぶぞ」というような「夢」に向かう姿を大切にすることで、「チャレンジ」していく体質ができたと思う。

その成果は、60年代の黎明期から80年代以降に花咲く形で現れた。シビック、アコード、シティ、プレリュード、トゥデイ、さらにオデッセイ、ステップワゴンなど、時代をリーディングする4輪商品が生まれた。

これらは、開発者の「夢」から機種開発時の「ワイガヤ」で事の本質まで議論し商品コンセプトを造り、あとは試作車をひたすら三現主義で造り上げ完成したものだ。

これらは、開発部門が本社の中にあっては決して出来なかったと思う。

  • その後の世の中の変化

バブル崩壊の90年頃から世の中は大きく変わり、ユーザーにとってクルマは段々と白物化していった。

そうなると、新技術満載の商品開発は不要となり、一方でコスト競争は激しくなり、開発業務には「効率」の考え方が大切になった。

この頃、ホンダは「TQM」という「効率で切る管理」を導入している。ただ、今までのいわゆる「自由闊達技術研究所」の慣性力もあり、当初完璧に導入されたとは言えなかった。

というのも、魅力商品を生み出すための自由闊達な研究所の成り立ちと「効率で切る管理」が相まみえない中、「結局どうしていくのか」という新しい研究所の方向性が所員には理解しにくかったのだ。

また、本社からは「研究所に商品創りの全てを任せておくと良い商品は出来るがコストが破綻する」となり研究所への干渉が強くなっていった。それは人事にまで及び、独立しているはずの研究所の役員が本社の役員を目指すようになり、商品開発から人事まで段々と研究所独立の意味が薄れていった。

  • ホンダブランド

ホンダ四輪ブランドは、北米と日本では随分と異なる。北米には当初から、国内とほぼ同じデザインやハードのクルマだったにも関わらず、まぎれもなく「信頼」のブランドで、日本では「先進・ワクワク」を期待されるブランドとなった。

これは、北米市場で2輪・4輪・汎用、ハード・ソフト共に「品質信頼性」を大切にした事が大きいと思う。大きな大陸での故障は命取りだ。北米のユーザーはいきさつなど関係なく「良いものは良い」と受け入れてくる。

国内では、ホンダの4輪は後発だったが、自分達の独創性を大切にした商品で日本市場を超えてデザイン・ハード共に世界的視野に立ったものだった。つまり、先輩メーカーの、日本を知り尽くしたデザインやハードとは異なっていた。そこが、何かしら「先進・ワクワク」感のある商品として日本人に受け入れられたのではないかと思う。

10年ほど前になるが、私はホンダの本格的軽自動車参入の企画を四輪事業本部で担当した。そのNシリーズの商品企画は、他社の軽自動車らしいデザインやハードを備えたものでなく、一つのクルマとして捉えたものだった。

事業的に考えると量販がマストなので、一般的には軽自動車ユーザーの価値観などを調べ、それに合わせた商品にしていくことになる。

形は丸く優しく、燃費は良く、コストを抑え、車名は愛称で、CMはキャラクターを設定し・・・。

Nシリーズは、結果的にこれらと真反対になった。

ホンダらしく一般常識にとらわれず、ユーザー価値観と車造りの本質までワイガヤで追求した結果だ。

  • 今後のホンダ

今は新車が発売されても昔のように話題にならない。ユーザー調査してもクルマに対する関心はあまりなく、そもそも「空でも飛ばない限り」魅力的な商品なんて今の時代にないということかもしれない。

今回の組織変更は、そういうユーザーや世の中の変化、さらに変化している本社と研究所の実質的な関係を肯定した中で行われたと思える。

しかし、魅力的な商品を生み出し続ける「仕組み」は必要だ。それは言うまでもなく、単に売れる商品企画でなく、ホンダブランドを大切にした商品企画が出来る「仕組み」だ。

「本田技術研究所」という「仕組み」に代わる「仕組み」だ。

その「仕組み」は外に公表されていない。

白物化した家電でも、ルンバのような魅力的な商品はまだまだ生まれている。

新技術開発はいつまでもどこまで必要なのだ。

今回、ホンダの新しい組織に組み込まれているはずの魅力的な商品を生むユニークな「仕組み」とそこから生まれる商品に期待したい。

 

 

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