昭和二十七年一月に初版が訳されたままの当時の翻訳のこのベルナノスの「田舎司祭の日記」は私にはどうしても読み辛かった。
読み始めてから、出てくる昔の漢字、言葉など、現在は使われていないものがふんだんに出てくる度に何度も読むのを辞めようと思ったが、時間は掛かったがスマホのグーグル翻訳などを使いながら、どうにか最後まで目を通すことが出来た、そう、自白しなくてはならないがしっかりと読み込んでいない感は拭えないままにである。
遠藤周作氏はフランスの留学中に原語でこの本を読み、生涯この本に出てくる聖なる苦悩を持ち続ける若い司祭をモデルのようにして来たと言うが、それが何となく私にも分かっただけでも、今回は良しとしよう。
もちろん、新訳などが出れば、是非もう一度と言わず、何度も読んでみたいと思う、カトリック信者からはタブーとも言われそうな興味深いカトリックの信仰を真正面から聖なる苦悩のうちにえぐりぬき、すべては恩寵であることに気が付く境地に命がけでたどり着く、若い司祭の姿は、遠藤氏が愛したことは容易に想像出来た。
今は同時に買った遠藤氏の愛読書モーリヤックの「蝮のからみあい」を読み始めた、これも新訳はなく、古い翻訳のもので読んでいるが、どうやら「田舎司祭の日記」よりは幸いに読みやすく感じている。
「蝮のからみあい」を読み始める前にマザーテレサの二冊買い、読んでみたが、あまりお勧めできるものではなかった。
一冊は1977年にフランス人が書いたものと、後はマザーの死後に生前のマザーに一度だけ会った司祭がまとめたマザーの言葉や逸話集である。
フランス人が書いたのでフランス語から訳された本である、この本にはシスターフランシスコ・ザビエルをシスターフランソワ・グザヴィエとあった、どうして日本人に親しみやすいフランシスコ・ザビエルと訳さないのだろうと思ったが、それを考えても仕方がない。
シスターフランシスコ・ザビエルはマザーと同じようにロレット修道会で最終誓願を終えてから、マザーの修道会に入ったマザーより二つ年下のクロアチアのシスターである。
他のマザーの本に書いてあったことだが、マザーはシスターフランシスコ・ザビエルとは母国語で話すことがあったらしい、マザーはセルビア語、シスターフランシスコ・ザビエルはクロアチア語で、とても似ている言葉なので、二人でいる時は母国語で話したらしい。
二人が周りのものたちには分からない言葉で故郷を思い出しながら話している愛らしさが浮かんでくる。
現在MC(マザーテレサの修道会)のカウンセラーである日本人のシスタークリスティーもこのシスターフランシスコ・ザビエルは特別なシスターだったと言う、マザーの傍ではあるがいつも御堂の外でミサにあずかっていたシスターフランシスコ・ザビエルを思い出す。