アトリエ・きき

ここから何が始まる?

何も持たずに

2016-01-29 04:19:34 | Weblog
うかぶよ

飛ぶよ

笑うよ

泣くよ

手を伸ばすよ

でもつかまないよ



食べるよ

眠るよ

歩くよ

走るよ

立ち止まるよ

でも振り返らないよ



夢を見るよ

旅をするよ

愛するよ

心を込めるよ

でも 放すよ



何も持たずに かろやかに 今を生きるよ





絵を描く人

2016-01-25 09:15:36 | Weblog
わたしはがっかりしたくない。わたしは多分に直感的な人間的で、人も物事も直感で判断し、その判断は大抵間違わない。
いやなものは最初から拒否するからがっかりすることもないが、ごくたまに、期待を裏切られることもある。

それとは逆に、やなやつ、と思った人が案外いい人だとわかったり、たいしたことない、と思っていた作品の良さが、何かの拍子に感じられたりした時はうれしい。

先日、仕事の後母の誘いで、隣の市の美術館に行ってきた。ある画家の企画展に行ったオリガタの生徒さんから、とてもよかったから先生も是非行って下さいと、わざわざ手紙が来たそうなのだ。

帰宅して遅い昼食を今まさに食べようとしているところだったので、面倒臭いなぁと思ったが、親孝行親孝行と頭を切り替えて急いで食べ、またハンドルを握った。

会場は、こんな田舎にもこんな美術館ができたのかとびっくりするくらい立派な場所。
あーでも、絵にわたしの心は動かなかった。
たいしたことない、そう思ってしまった。

なんだかうすっぺらい。しかし小生意気にこんなふうに思ってしまう自分はカナシイ。すばらしかったとわざわざ感動の手紙をくれた方に比べ、感性の針が鈍い。母もかなり感動している。
改めて、美を感じる時、美しいのは対象ではなく、感じた人の心なのだと思う。
これは好き!というものがひとつでもないものかと、たくさんの作品を観てまわったが、もしもどれかくれる、と言われてもなぁ・・強いて言えばこの絵かなぁ・・くらいにしか思えなかった。
あ、サムホールを12枚並べた「四季の詩」だったか、それはよかった。
とにかくその程度だった。

その日は作家ご本人が来ているという。ホワイエで数人の女性と話している長い白髪後姿の男性だろう。 会場内に秋山庄太郎撮影の写真もあったが、やはりあんまり好きじゃないくらいにしか思えなかった。(ごめんなさい!秋山さん、撮り方よくないよ!)

母は、せっかくだからお会いしていこうと張り切っていた。わたしはどうでもよかったけれど、ひとつ質問したいことがあったので、地区の小中学生の書道展を見てから母の隣に座った。

母は図録を購入し、最後のページに何か描いてもらっていた。サインがわりに、絵を描いてくれることになっているらしい。
母との話が一段落した時、わたしは知りたかったことをきいてみた。

画家は、写真よりも年をとっており、顔にはいやな癖がない。なんだ、思ったよりいい人かも、と、わたしはまず少しうれしくなった。
この人は、高校の頃から注目を浴び、安井曽太郎、須田国太郎らそうそうたるメンバーの推薦により、武蔵野美術学校に入学するものの、中退し、一時描くことをやめてしまう。それはなぜなのか。わたしはそこがききたかった。
須田国太郎は、わたしの尊敬する画家だ。その人が絶賛したという絵についても知りたい。

彼は、わたしの質問に対し、待ってましたと言わんばかりに、当時の学校の様子と彼自身の様子、父親の死にまつわる大人の世界の醜さなどについて、ひとつひとつ丁寧に話してくれた。わたしはすっかり得心してしまった。

彼は、絵の商業的かつ封建的世界が大嫌いなのだそうだ。だからこそ、文化村や和光、関西では中宮画廊などで企画展ができた事情なども、詳しく話してくれた。
ストラビンスキーやドビュッシーの音楽との出会いや、それらから触発されての製作についても。

そしてその、国太郎が絶賛したという高校時代の絵。
それは「家族」というタイトルで、描いた背景も教えてくれたが、具体的にどんな絵だったかはわからなかった。
「今でも、よくあんな絵が描けたなと思います。」と作家自ら言う絵。見てみたい!と思った。

釣りを愛し、普段「すごい格好」をしているという彼、釣り場近くの顔見知りのおばちゃんが、「ちゃんとした姿で会場にいる」というので、遠路はるばる見に来たそうだ。

「がっかり」の反対。
よかった。この人はいい人だ。面と向かって話をきいて、それがわかった。会わなかったら、特に関心を持てない人、で終わっていただろう。ラッキーだった。

「お話できてよかったです。作品イコール人、云々」と伝え、今後の案内状を下さるということで、わたしたちの住所を書き、またどこかでお目にかかりましょうと別れた。
図録には、くさ原に小鳥の図が描き上がった。そしてこの時間をとどめる言葉。

しかしなぁ。会場の絵はなぁ。(まだ言ってるよ!)初山滋の天才を知っているので、この種の絵にはどうも厳しくなる。もちろん、これは単なる自分の感覚で、初山を見ても感動しない人もいるだろう。

彼はデッサンを学んだのは美術学校に入ってからで(そんなことまで質問したのか!)、そこも程なくしてやめてしまう。
心象風景を描く、幻想的な画風、などと紹介されているが、もしデッサンを極めたとしたら、絵は変わってくるのではないか?どんなふうに?
知りたい。これからでも、やってみて下さい、とお勧めしたい気持ち。

彼の絵は、ベージュの壁の応接間や玄関に飾るにうってつけ。固定ファンもたくさんいることだろう。
でも、広い会場内全部が全部、同じ雰囲気。それでいいのか?一生そのままでいいのか?

正統派の画風画法に背を向け、独自?の世界を築いて成功してきた人だ。今更デッサンでもないだろうが、わたしはそれを強くお勧めしたい。(ここで力説してどうする!)

先程パソコンで彼の名前を検索してみた。
おお~。あったではないか!ホームページ。そして 国太郎絶賛の「家族」。
これは確かに普通の高校生が描く絵ではない。国太郎が気に入ったのもよくわかる。今とは雰囲気がまったく違う。わたしは昔の絵のほうが好きだ。

しかし、例えばわたしのこんな失礼な独り言を聞いたとしても、彼は動じないだろう。笑ってきいていてくれるだろう。そんな、人間としてのは彼は好きだ。だからやはり会えてよかった。
わたしの中では、「人」が「作品」に勝っている珍しい例だ。(ふつうイコールで結ばれる。)絵を観るより、その人と話しているほうが面白い。だからもっと絵も好きになりたい。

海の月道

2016-01-22 14:58:23 | Weblog
海が盛り上がり、わたしを迎えに来る。

月に呼ばれて、波は応える。

うねる。砕ける。返す。
うねる。砕ける。返す。

ほの明るい月の道は、繰り返す営みの向こうで、たおやかに夜に挑む。

吠吼は鎮まらない。怒涛は止まない。

闇を越え、時に運ばれ、何かに呑まれそうになるわたしを、じっと見ている。



海が盛り上がり、月の道を湛えて、

わたしを呼んでいる。

いつあそこに乗ろうかと、わたしはぼんやり考えている。





やっと会えたね

2016-01-18 23:49:58 | Weblog
降ったよ雪が
白い 白い 白い雪が

やっと会えたね
待っていたよ
舞っているよ 静かに 楽しそうに

雪は空をうずめ 車と走り ストップモーションで落ちてくる
本当に 本当に 待っていたんだ
わたしはなんで 雪子という名前に生まれなかったんだろう

恋人どうしになれそうな二人は うれしそうだよ
なんだか話がはずんでいるよ

わたしはわたしは
世界のみんなに雪の到来を告げ
仕事中に何度も入り口のドアを開け
まだ降ってるだの やだ小降りになっちゃっただの 地面に積もり始めただのと
わくわく はらはら 大忙し

目も 心も 雪をファインダーに閉じ込めたくて
感覚を 最大限に研ぎ澄ます

雪は 不思議の国の演出家
林を 畑を 街並みを 白く 清浄にして 
人の心に 風を起こす
黙っているのに なんて雄弁にドラマを物語るんだろう

そうだよ 物語はいつも ここから生まれるんだ

温かい豆のキッシュと ミモレットとフェンネルのパウンドと 赤キャベツの酢漬け
ごちそうありがとう

ほらね 雪は言葉になった
そして雪は絵になるよ
やがて雪は 音楽にもなるよ

さぁて 旅に出ようか
冷たい空気をいっぱいに吸い込んで
空に浮いて

でもでも花が寒さを感じないように
今日はそういう魔法をかけて

ありがとありがと
昔 お風呂に入っていたおばあさんたちが言ったよ
うふふ しあわせありがとう

わたしも そうやってつぶやいてみよう

しあわせありがとう
奇跡をありがとう

しかし寒いねこのお店
すばらしい すばらしい 





よしなしごとを

2016-01-17 00:02:00 | Weblog
わたしは歌を歌っています。
なぜかはわかりません。
遠い昔、森の中で歌っていたことが懐かしいからかもしれません。

わたしは言葉を紡いでいます。
なぜかはわかりません。
遠い昔、言葉にできなくて悲しい思いをしたからかもしれません。

わたしは旅をしています。
毎日毎日旅をしています。
どこに在っても楽しめて、どこに行っても自由です。
たとえ動けなくても旅人であり、そして心は自由です。

わたしは空を眺めています。
どんな空でも、じっと眺めます。
何か降ってきそうで、でもなかなか降って来ないので、いつまでもいつまでも眺めてしまいます。

わたしは風を追っています。
いつも風を、追いかけています。
昔大切な友たちが、「風の道が見える気がする。」と言いました。
わたしもそれが見たくて、瞳を凝らすのです。

そんなふうにしても、きっと見えないことはわかっています。
本当は、心の目を開けなければ、風の道は見えないのです。

わたしはチョコレートを食べています。
しあわせになりたくて、チョコレートを食べています。
チョコはとてもパワーが強くて、それを食べればすぐにしあわせになれるのです。

わたしは紅茶を飲んでいます。
濃いミルクティーを飲んでいます。
季節が夏に傾いていくのがこわくて、熱いミルクティーにしがみつくのです。

わたしは猫の頭をなでています。
猫がそばにくると、手が勝手に動くのです。
わたしの手は、猫の頭が好きです。
耳と耳の間の、小さくてなだらかな頭が特に好きです。
なでられている猫もうれしそうで、わたしもいっそううれしくなります。

わたしは、木々の葉や草の緑が好きです。
なぜかはわかりません。
たくさんの緑を見ていると、とても豊かな気持ちになれるのです。
そして、緑の中に還れたらと思うのです。

わたしがこの世からいなくなっても、ずっと緑は好きだと思います。
この世からいなくなった時、どこに行くかはわかりません。
でも、緑のあるところだといいなと思います。
願いといえば、それくらいのものです。




旅人のように

2016-01-13 01:25:33 | Weblog
旅人のように生きたい。

旅人のように歩き

旅人のように座り

旅人のように食べ

旅人のように話し

旅人のように眠りたい。


旅人のように執着せず

旅人のように諂曲なく

旅人のように迷い

旅人のように感動し

旅人のように記したい。


今はまだ旅の途中。

来る日も来る日も 旅の途中。

やがてこの旅が終わり

休息の時が来るまで

旅人のように行きたい。

旅人のように生きたい。

そして旅人のように逝きたい。






さよならでなくさようなら

2016-01-11 07:03:44 | Weblog
ひろがれひろがれ彼方を目指せ

足もとは見なくていい

見すぎれば

飛べることを忘れてしまう


見つて見つめてその手を見つめて

目をそらせば

足りないものが見えてこない



耳をすまし 心を開き 

口は閉じて 目は美しいものを求め

厳しい言葉を味わい やさしい匂いに敏感であれ



表わすのは

形に込められた本当の自由であり 

嘘のない心であり

宇宙であり

小片の上の一葉である



さようならは左様なら

それならそこに 何が続くだろう

また始めること 歩き出すこと 忘れること 胸に刻むこと

言えるのは 

決して終わりではないということ

いつでも旅の途中

いつでもスタートライン



左様なら また明日

左様なら 右側に無限の未来

左様なら いつまでも見ている







海を思う

2016-01-10 06:22:57 | Weblog
海は
ある人には受容の象徴であり
ある人には旅の出発を意味し
ある人にはかなしみの捨て場所となる

悲喜こもごもをのみこみ
今日もただ黙って揺れているのだろう

東の海は始まり
巨大なエネルギーの受け皿
西の海は結実
極楽浄土に続く絨毯

山の子のわたしが海に惹かれる時
それはただ海の大きさを感じたい時
何も言わずに向かい合いたい時

底知れぬ力を秘めた海は
人智などはるかに超えた叡智と愛の集合体として
今日もただ黙って揺れているのだろう





夜が明ける前に

2016-01-09 06:05:30 | Weblog
すべてが夜に沈み すべてが眠りに落ち すべてが互いの関係を断つ頃

見えない世界で たくさんのものが動き始めている

溜めて 溜めて 溜めた思いを やっと語ろうと唇を開く時のように

本当はあらゆるものが 形を変える準備を始めているんだ

漆黒の空には星 

東の山々がごくごくわずかな 光とも言えない光でふちどられ

やがてやってくる煩雑な日常を予感させるのではなく

聖なる儀式の幕開けのように 厳かな気配を漂わせている



苦い思い出はあの光の線に放ち

拡散して帯となり 黒を押しやって藍となり青となる新たなエネルギーに委ねよう

時は刻々と 淡々と ただただ進んでいる

さあおいでと わたしを導いている



夜明け前の気温が一番低い

陰は極まってこそ陽に転ずる

心の傷は 付いた時から癒える方向に向かう

そうして誰もが 一人の例外もなく 時の歩みに従っている



さようなら2015  さようなら過ぎた時間 

精一杯の愛を込める2016は まだ始まったばかりだ






にび色になるまで

2016-01-08 06:31:05 | Weblog
~1日に他界した86歳の親友に捧げる~


金に輝く思い出を巡りながら
小さなろうそくを灯そう

かすかに揺れる炎に ひとつひとつをかざして

やがてその輝きが ほの暗いすすを纏い
透明な湖に沈んでいく様を  静かに眺めよう


置いてきたのは

憧れでも
哀しみでも
叫びでもなく

ただゆったりとした 安堵の呼吸だった


振り向けば
花が咲き  小鳥が鳴き  生き物が集い

ひた走れば
山を臨み  海が迫り  道は続き


おそれるものは何もなく
あたたかさに満ちた時間が
いつものことのように  淡々と流れた


今ここを生きるために
今ここに 端座する

揺れる5000年の光を たなごころにあかく映し
命の重さにとまどいはしても
しばらくは 深い夜にとどまろう


金の思い出が 少しずつ向こう側に流れ
美しいにび色になるまで

積もってゆく記憶の層に
それを上手に刻めるようになるまで





白い夜に

2016-01-06 00:30:11 | Weblog
2016年を、無事に迎えることができました。いろいろなことがありましたが、すべて感謝でくくれることを本当にうれしく思います。
それでも、そっとしておいてほしいものはあります。ひとやすみさせてもらいたい心も否めません。時間の力を借りて、少しずつ美しいガラスの中に移してゆけたらと思います。

大切な人を1月1日に亡くしました。亡くしたことを昨日知りました。本当に残念でなりません。80歳をとおに過ぎた方ですが、わたしにとっては親友と呼びたい人でした。
10年ほど前にお別れした親友も、80を過ぎていました。「80のばばあでございます」が、初対面の人への挨拶でした。
ふたりとも、お転婆でとても元気。自転車で、車で、走り回る人たちです。先に送った恋人やご主人を、遠い目で語るのも同じでした。
わたしがあの世に行ったら、ふたりを引き合わせ、三人で遊びたいと思います。そこには、ふたりにふりまわされてやれやれと笑うわたしがいるかもしれません。




月の光しらしらと地上に降り
夜が 部屋に忍び込む

すべての色を消し去り
すべての過去を沈ませ
今だけを薄明かりの中に
ぼんやりと浮かび上がらせる

すべてが錯覚だとしたら
この傍らの
小さな猫の背を頼ろうかと思う