月のたび

日々の日記

選挙革命の季節

2007-07-24 13:00:58 | 政治(・・・?)
いつも同じパターンの非難しかできない無能な政党、政治家を見てると、自分自身をそこに見ているような気がしてきますね。

そういう悪口は聞き苦しい。「悪いのはいつも○○○」っていう非難の意地汚さに気付かない、自覚がない。こういう無節操さが至る所で悪く作用して、社会をダメにしているという気がします。その悪影響を私たちも受けているわけですが、今度の参議院選挙で意思表示できるので、是非行きましょう。(※このブログは特定の候補者や政党を応援するものではありません。)

そろそろ就職時期か

2007-07-23 20:58:49 | 今日の出来事(重要性低)
テレビ東京「主治医が見つかる診療所」を見ました。骨粗鬆症には無縁な私。ではあるが、将来それに苦しまないとは限らない。今の老人は戦後の食糧難の時代を知っているが、今の若者はそれがどういうものか知らないし、食生活も変わってしまった。

だから、我々が老人になるころには、老人のかかりやすい病気も今とは違うはず。
それは、例えば、一日中パソコンに向かっているようなデスクワークを何年も繰り返してれば、自然と体の機能も退化してくるでしょう。それは自然です。そして、デスクワークや倉庫内の作業で一生の大部分が使われるのは、自然でしょうか。今の時代の常識がこれからも常識として通用するのか、と思います。

そこで、私は今、方向転換して、林業の仕事に興味が傾きつつある。いろいろ調べた結果、はじめは些細な気持ちで始めたら面白くなったという人がいるらしく、その一方、いろんな夢膨らませて、そういう仕事に就く人は逆に当初の思い込みと違ってた、というケースもあるという。いずれにせよ、自分の健康から職業を選ぶというのもアリかと思います。体力には自信ある、けど実家から遠いというのが難点。

最近の生活事情

2007-07-23 11:34:03 | 今日の出来事(重要性低)
最近の生活事情は、以前に比べやや好転しています。ニートなりに空き時間を有効に使えており、以前のように何をしても裏目というスパイラルはなくなり、身近にあるものを少しでも有意義な形に変えていくよう努めています。それを続けていれば何か実を結ぶかもしれない。

チャンスと可能性に接近しては、それをふるいにかけている感じです。

コミュニケーションの課題

2007-07-22 23:52:33 | 今日の出来事(重要性低)
面接の反省点
・話し方が下手
自分の仕事について、人にわかりやすく伝えようとする訓練を何かの形で積んでいるかどうか。以前の仕事の話をどのようにするか見れば、そのひとの仕事への取り組み方など見えてくる。営業の能力としても参考になる。

・相手の目にすがる自分
「相手の目を見て話す」とよく言うけど、自分が説明しにくいことになると自然と目が反れる。自信のないときは、どうしても目が反れる。だから、自信をもてる仕事の仕方をすることだが、自分はそれができなかったらしい。今からどうしようもない。でも、それ以外については、努めて目を見て話すのを心がけた。同時に、相手の目を見なければ話ができない自分、がわかった。相手の目にあらわれる反応を確認しながら、自分の発言が相手にどういう効果を与えているか、間違いを犯していないか不安に思いながらでしか話すことができない。

面接の対策
・毎日、壁や空気に向かって自己PRをする練習
相手の反応を窺いながら話すくせがあるので、相手が緊張すると私も緊張し、相手がコワがると自分もコワがり、相手がメゲるとこっちも萎える。それではいけないのである。私は相手がどうあれ、私の言いたいことを自分に楽しいこととしてスピークする。音波を発する。そしてその音波をキャッチした相手が私の話の熱意に引き込まれれば成功。こうするには話し手は、壁や空気に向かって話しているのと同じ要領である。営業では、相手がウザがっていても、こっちは言うことは言わねばならない。面接の場に限らず役立つ機会は多い。日本人はこういうの苦手ですね。

7月の花火

2007-07-21 23:25:18 | しみじみ(滋)
今年初めての花火を、今夜みました。

遠くの夜空にパッと輝いて、消えていきます。それが1時間ほど続きました。

アンリ・ファーブルさんは「ファーブル植物記」という本で「すべての人が幸せになれるなんてことはありえない」というような主旨を言っていました。それは、だからこそ、そうでない者もしあわせに生きられる、しあわせとは、そういうものだ、と説いているようでした。

ファーブル昆虫記買いそろえたいけど、お金がなく今は買えません。


余分の人生

2007-07-20 05:29:40 | しみじみ(滋)
今はもう詳しく忘れてしまいましたが、私はある苦しい経験をし、そのため一度自分は死んでしまい、生きるはずでなかった生を今生きているっていう感じがよくするんです。

そういうことを強く感じる時ほど、投げやりな気持ちになるし、何でもしてやろうって気持ちにもなる。

その死んだ経験が、今の自分を生かしているんだな、と思います。

ニート的思考

2007-07-19 13:36:58 | しみじみ(滋)
ニート的思考を思いつきました。(ブックマークの方のブログ見て思い付きましたので詳しくはそちらを参考に)

たとえば、プールの水が冷たいのを知って、入りたがらない人に似ています。

片足を入れてみる。すると水は冷たい。「やっぱ思ったとおりだ」と考える。

それでも、体まで入って冷たさに慣れてしまえば、そういうものだと思い、気にしなくなります。つまり、「冷たい」って知識があるために、冷たいとしか受け取れない。

でも初めのうちはその冷たさがなじまない人いますね。

完全主義とコミュニケーション

2007-07-18 12:32:41 | 裏路地(暗)

今朝、散歩から帰ってきたときに、台所に明かりがついており、父が早起きして食器を並べるようなことをしている。そのとき何となく、私はイヤな気がして挨拶しなかった。その理由は私の挨拶に対する父の声音のうちに、何か傲慢な感じがしそうなのでした。具体的にいうと、何か、頭ごなしに見下すってわけじゃないけど、その親切めいた態度のうちに、秘めた、何か、私が思う以前の前提からひっくり返してしまいそうなくらいの、すれ違い、決定的なズレ。まるで、よくわからない。一言で言うと、「相手に対する敬意」ってのを欠いている、みたいなんです。

 そしてそれは私にも言える。妹と話していても、どれだけ話しても、私の内の何かが、イマイチ邪魔している。だから私もどこかが間違っているわけです。何かすごく傲慢である。それをたとえば、時々妹が私をなじるような一言のうちに気づかされる。そうしてそれを私も意識し、するとそれ以上話せなくなってしまい、固まってしまう。そして固まるってことは、その問題が解決することじゃなくて、なかったことにするに過ぎない。ってのは自分でその問題をどうしたらいいの分からないから。自省できないってのは自省心が足りないからです。

で、思い返してみると、メンツを守りすぎるって事ある。メンツを守るってのは自分の中で高い目標を持つってことだからね。でも、高い目標ばかりにこだわり過ぎて、それが空洞化して、格好だけは気にするようになって、結局、形だけにこだわりを見せるさもしい奴になっちゃったってのがメンツ。

中谷彰宏さんが言ってたけど、「相手に飛び込んでいく」ってことを私はしない。ソクラテスの言だったか、詳しく覚えてないが「対話は裸でするものであって、裸になって対話をしないからズルい」みたいな事を言ったらしい。(いきおい裸になっても相手がドン引きってケースもある)でもやっぱこのアタリです。では私はどうすべきか。

ここで問題になっているのは何か。

会話をしても相手は、まるで私に支配されているような、支配を受けているような、予定調和的な気分になって萎える。つまり、結局いくら話しをしても、それは私の立場を、私にとって都合のいい形で認めさせるに過ぎない形になってしまう。形式だけになってしまう。つまり、話の内容はどうであれ、こういう形だけは同じだからしこりを感じる。だから妹は私の前では少し居心地が悪いはずであって、疲れるのだろう。

それで原因なのは結局メンツだと思われる。メンツってのは、相手に話していい事と話すべきでない事を区別することから始まる、のではないか。そして私には家族の内にも話すべきでない事が多すぎる。だから、思わず吹き出したくなるって事が皆無なんです。私の場合、会話をパーフェクトにコントロールしていますから、スキがない。スキがないのはそもそも虚構です。不自然です。だから結局会話を萎えさせる。つまり人間的じゃない。人間的ってのは思わず笑っちゃうような変てこなところでも、毎日顔を見合わせている相手の中にも発見することがある。それが人間的だって事です。それが自然なんです。

それで、話がそれるけど、じゃあここで、人間的ってのはパーフェクトにコントロールしないことかって言うと、そういうことが他の全てに当てはまるわけではない。

「人間だもの みつを」の世界になっちゃいます。この理屈を通せば何でも許されてしまいます。いつもいつも性格温厚ってのは嘘っぽい、転んだり、失敗したり、変だったり、哀れだったり、その人の意志を越えて現れてしまうその人らしさってのを共有しちゃうから人間らしい関係だけど、社会のコアな部分ではそれが許されません。核兵器の管理だとか。だからわたしの会話が社会的なものになりやすいってのも、それに耐性ある人間性を演出してるだけちゃなく、そっちに逃げて、パーフェクトなコントロール属性を維持するための理屈を推し進めるだけの理由付けになるからです。

植草ミラーマン教授のように女性をワンワンポーズにさせ、そこにローソクをポタポタさすようなDVDをたくさん集め持ってても、それが本当に社会に必要な有能な評論家ならば立派に通用していく。ただ、社会的に立派な地位になるほど、現代の日本では政治的な力が加わってきますから、いわれのないバッシングを受ける。還元水で自殺に追い込まされたり、ミートホープだのコムスンだの産む機械だのっていう言いがかりを作って1ヶ月に一度くらいのペースでメディア総動員のバッシング・キャンペーンをする。「驚くべき真相」とか「波紋が広がっている」ということになって、いけにえにされる。

こういう社会は生きにくい。本音とタテマエが都合よくブレンドしていれば人間関係でも社会生活でも調和が取れるものを、一方では完全主義が要求されるけど、他方ではほどほどに自分の身を世間の垢で汚さなくちゃならん。 このバランスです。