つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

刺激の現象

2015-09-21 | Weblog
人たる生命体は高度な成長を遂げるものであるが、
その過程に於いて無記にして、得てして間違った方向を選んだりするもので、
同種でありながら対立しあって生きたりする。
共存共栄とはいえ邪念を持ち、競い争うというところに興味が注がれる。
その上での繁栄であるために、競争心の少ないもの、無いものなどには
はなはだ苦虫を味わう。多大に欠点のある共存共栄となっている。
時を超えて、
地球の生命体よりはるかに遙かに優れた宇宙に散らばりし生命は、多くは平和主義であるが、
彼らにしても創造神をいまだ見いだせずに探し求めるに至る存在である。
宇宙の法則は善悪は無くただ浄化にあるもので、それが正負同等であるために、
どちらにしての浄化であるかは自由によって正義となっている。そのために、
力を誇示して、他に挑み闘争の中に住み、それを善として生きるものもいる。
正しい浄化にあるものには、善悪顚倒としたものとして対立にあるものである。

法則はただ一点に帰り、ゼロとなるための浄化である。ゼロは始まりであり終わりでもあるエネルギーである。
このゼロの容のエネルギーの物語である。自由それがゼロの本質である。
あるともないとも、反応するものだけが現れてくる。それは、見るに、陽炎の様に揺らいで立ち上がり、自然と丸く引き合う
もので、あるともないとも見えたりするものである。

時が進んで、地球人も科学技術に於いて居ながらにして天体観測ができ、はたまた、駆出しではあるが
宇宙探検に出かけられるようになってきた。すると、
宇宙には他の生命体がいることを知り、とてつもなく高度に発達した頭脳である事を知る。
天空を自由に飛び回っている姿を見ることができたためである。それは何よりも知的でなければできないことであることを、
自らの技術開発によって知ることができるためである。
宇宙には、この地球よりも大きな存在を持つ船が飛んでいることを見る。人知想像さへ超えている高等な技術力と知る。
それは、人類のような損得勘定にある経済という方法は持たず、
生命の使命というのに基づいて動いているために成しえる技術である。
種の生きているための共存共栄は、真に互いの繁栄にあるための共存である。そのために、損得などなく
生命としての喜んで生きていく使命でもって生きている。法の道理に適っている生き方である。

人の生命は高等な遺伝子を持ち、それこそ仏陀になり得る生命である。
記憶の正しく完成された生命体となれば、法則の世界そのものの存在となり、主体にして客体となり得るものである。
輪廻することもなく、飲食することのいらない、自由奔放であり、清浄無垢、清浄潔白、な世界となる。

「汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願」
「汝よく聴くがよい。法を身に付けて観音と呼ばれるようになった人の行為は、諸々の所に於いて善い行いとなり
正しく対応された行為となっている。その誓いは、海の如く弘く、深く、生涯考える必要のないものとなっていく。
多くの人を仏として身の回りに侍らした世界となり、清浄な願いを発した世界となっている。」
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