つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

常識外

2019-01-13 | Weblog
エネルギーが存在の源である。
エネルギぎーがあるための世界であるために、無というのは存在しない。
宇宙がエネルギーの世界であるために、その中で、無ということについて思考しても
意味のないことである。考えても仕方がないこと。
或いは、無から有はできないのが道理であるために、道理にないことは考えることはできない。
これを不可思議という。不可思議なことを思うことを無駄という。

要するに、エネルギーの無いところには存在は無く、存在のないことを存在にあるものが
考えることはできないのである。答えは出てこないのである。

文殊師利菩薩は、「無」とは何かと問われてあれこれ述べたが、では、「無とは何か」と維摩居士に問い返したときに、維摩居士は
口一文字で答えとした。文殊菩薩は確かな答えに感嘆した。維摩は在家の修行僧である。

エネルギーの存在の中では、すべてが不思議である。
だから、心次第でどうにでもなる世界である。これは、
あまりにも簡単に述べた結論なのだが、結論に至る道のりは深遠である。
ありのままに物事を見れば、空間と時間がはだかるために、一つ一つ越えてていかなければならない。
それには、膨大な時間、つまり、距離を要する。
が、空間と時間を抜かせば瞬時に目的を見ることができる。辿り着くことができる。
これがエネルギーの不思議であり自由である。
人間の科学も進歩してきて、空間の隔たり、時間の隔たりというものを省いていけることを
想像できるようになってきた。まだ量子的な分野を解していないために達成できていないが、
やがて瞬時を得ることはできるだろう。要点は心の動きにある。

存在していることがエネルギーによるものである為に、私達もエネルギーの存在である。
エネルギーは動くものであるために、その動きの変化によって様々なエネルギーとなって存在している。
決して無くならないものである。ただ変化しているものであり、これを無常という。
無常が常住、これがエネルギーの在り方、この源が自由となっている。
フリーエネルギーであるために、独立にあり、他に由らなくても勝手に動く。
自然が何かの力を借りて動いているのではないように、エネルギー世界は、
無限な動きとなっている。自らしかありである。だから、本来私たちが生きていくにも、
無償で生きていけるのである。人間以外の生物はすべて無償で生きているのを見てもわかるように、
お金というものは不要なのである。心の通い合いで生きていけるものなのである。
お金は人間の悪なる仕業である。
人間にある煩悩、心の歪がお金というものを作ったのが根本の間違い。苦の創造である。


仏という知的生命体は、心もエネルギーであるために、心が生命であり、
肉体を持って生きていくことによって、心の在り方を磨いていけば、
何事にも思いのままになっていくことを訓えた。不思議を得られると諭したのである。
あれこれと思議することの不要さを訓えたのである。
エネルギーの法則を正しく理解していけば、その知恵によって何事も瞬時に正しく判断できていくために、
般若心経でエネルギーの法則を説き、心をどうあるべきか、どう磨いていくかを説明して、観音経では
その力がどういうものであるかを説いて、エネルギーが不思議な世界であることを訓えていったのである。

さて、エネルギーの世界は唯一純粋な世界であるが、見る限り相対的にあり、以って、曖昧な
三つ巴の世界となって感覚されている。
エネルギーはただ回るだけのものであり、それ以外に理由などないが、
心がエネルギーであるように、存在も意思のエネルギーである。
存在であるから生きているものであって意思によって動いている。その意思が自由意思である。
善悪も自由意思である。その自由意思にはただ回るという正義があるだけで、善悪もその繰り返しの巡りの正義にある。
つまり、善悪が無いための正義が絶対善となる自由。

変われるのは、常識外にあるものだけである。
常識にあるものからは、新は生まれない。
発展、進化がすべて常識外から出来てくるように!




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