次々と悪事は暴かれて、嘘八百の世の中で暮らしていた人たちのほとんどは、
騙されていたことの裏付けを明かされても、信じられないでいる。
「信じるものは救われる」の言葉は、正しいことにのみ効力があるが、
歪な事に充てられているとその身をただ害するだけ。自業自得として報いなければならない。
それは様々に不都合として襲ってくる。
救われることは無い。「ただ私がばかだった」と懺悔して、
行為として改めていくことに初めて報われていくことになるが、
懺悔することなく、ただ手の平を返す振舞は、さらに後悔するだけとなる。
日和見は事を起こす前にだけ有効であるため、
その信用失墜を戻すには並々ならない努力を要する。
あまりに過酷にしてその努力は、終に身を害し不意となる。
しかるに、その努力は死後に報われて、輪廻には無垢となって咎は無くなる。
再びとして一から始まることに、
心得て生きることは、ただ無知である事をなくすことに専念するにある。
魂は連綿である。記憶を思い出し、過ちを繰り返すな、これに尽きる!