昨日いた人は
今日、もういない。
自分の死というものを身近に感じる事も無く、
神も仏も曖昧で信じる事も無く、ただ世間を感じて生きていただけの人。
死という出来事を境に、一瞬にして
垣間見る事もなかったあの世へと移動する。
その時、神も仏も信じなかった疑いの心は
さて、なにを見たのだろう?それから何を見るのだろう?
この世で説かれていた神、仏を理解するのだろうか?
本当だったと・・・
後悔先に立たずという。
真実を見る魂は、はたして嘆き憂えるものか。
この世の曖昧模糊とした現象が、しかし、確かにあったことが
何の意味を持っていたのか知り得るだろうか?
観自在菩薩の啓示として説かれた心経は、その中で あの世は「不垢不浄」と語っている。
それは、、綺麗とも汚いとも思わないという
感情の一切動く事がない世界であるとしている。
もし、この世という傍から見たら、それは恐ろしいほど荒んな処であったとしても、そこに棲む者は当たり前の世界だとして
反省される事がない。どんなに苦しんでいたとしても。
苦しむのが当たり前として、苦しみながら生きている。
地獄となっていることに気がつくことがなく、救われる事のない世界となるとしている。
この世の存在は、人の死後の世界のためにある。
生命そのものの世界である法の絶対世界をつくるためにある。
人の死後の世界が、生命の快い世界とするか、不快な世界とするかを決める事のできる
場であるとして、この世の存在となっている。
そのために、曖昧な自由を持つ。法の自由であり、生命の自由である。
その自由を持って人は生きている。自分の為として。
それが人は分からない。故に、悪い事をして地獄に縁を結ぶ。
仏が悪い事をしてはならないというのがなぜなのか。
人は、自分の為ということがわからず生きている。
無明である。
今日、もういない。
自分の死というものを身近に感じる事も無く、
神も仏も曖昧で信じる事も無く、ただ世間を感じて生きていただけの人。
死という出来事を境に、一瞬にして
垣間見る事もなかったあの世へと移動する。
その時、神も仏も信じなかった疑いの心は
さて、なにを見たのだろう?それから何を見るのだろう?
この世で説かれていた神、仏を理解するのだろうか?
本当だったと・・・
後悔先に立たずという。
真実を見る魂は、はたして嘆き憂えるものか。
この世の曖昧模糊とした現象が、しかし、確かにあったことが
何の意味を持っていたのか知り得るだろうか?
観自在菩薩の啓示として説かれた心経は、その中で あの世は「不垢不浄」と語っている。
それは、、綺麗とも汚いとも思わないという
感情の一切動く事がない世界であるとしている。
もし、この世という傍から見たら、それは恐ろしいほど荒んな処であったとしても、そこに棲む者は当たり前の世界だとして
反省される事がない。どんなに苦しんでいたとしても。
苦しむのが当たり前として、苦しみながら生きている。
地獄となっていることに気がつくことがなく、救われる事のない世界となるとしている。
この世の存在は、人の死後の世界のためにある。
生命そのものの世界である法の絶対世界をつくるためにある。
人の死後の世界が、生命の快い世界とするか、不快な世界とするかを決める事のできる
場であるとして、この世の存在となっている。
そのために、曖昧な自由を持つ。法の自由であり、生命の自由である。
その自由を持って人は生きている。自分の為として。
それが人は分からない。故に、悪い事をして地獄に縁を結ぶ。
仏が悪い事をしてはならないというのがなぜなのか。
人は、自分の為ということがわからず生きている。
無明である。