つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無明

2007-04-27 | Weblog
昨日いた人は
今日、もういない。
自分の死というものを身近に感じる事も無く、
神も仏も曖昧で信じる事も無く、ただ世間を感じて生きていただけの人。
死という出来事を境に、一瞬にして
垣間見る事もなかったあの世へと移動する。
その時、神も仏も信じなかった疑いの心は
さて、なにを見たのだろう?それから何を見るのだろう?
この世で説かれていた神、仏を理解するのだろうか?
本当だったと・・・
後悔先に立たずという。
真実を見る魂は、はたして嘆き憂えるものか。
この世の曖昧模糊とした現象が、しかし、確かにあったことが
何の意味を持っていたのか知り得るだろうか?

観自在菩薩の啓示として説かれた心経は、その中で あの世は「不垢不浄」と語っている。
それは、、綺麗とも汚いとも思わないという
感情の一切動く事がない世界であるとしている。
もし、この世という傍から見たら、それは恐ろしいほど荒んな処であったとしても、そこに棲む者は当たり前の世界だとして
反省される事がない。どんなに苦しんでいたとしても。
苦しむのが当たり前として、苦しみながら生きている。
地獄となっていることに気がつくことがなく、救われる事のない世界となるとしている。
この世の存在は、人の死後の世界のためにある。
生命そのものの世界である法の絶対世界をつくるためにある。
人の死後の世界が、生命の快い世界とするか、不快な世界とするかを決める事のできる
場であるとして、この世の存在となっている。
そのために、曖昧な自由を持つ。法の自由であり、生命の自由である。
その自由を持って人は生きている。自分の為として。
それが人は分からない。故に、悪い事をして地獄に縁を結ぶ。
仏が悪い事をしてはならないというのがなぜなのか。
人は、自分の為ということがわからず生きている。
無明である。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする